第一話 花の帰還

 

十一候、桜の花は開き始めたばかり。

ざわ と枝を揺らす風に白銀の妖しはその面を上げた。
供の小妖と人間の子供は何も気付かずに眠っている。
《・・・この風の匂い・・・》
おかしな気配はしない。
けれど何故か気ぜわしく感じられ、つと立ち上がると何かに引き寄せられるように森の奥へと歩みを進める。
木々の開けた所に小さな湖があった。
鏡のような湖面が東の空の天満月(あまみつつき)を美しく映していた。
風に運ばれてくる微かな匂いの中に、忘れていた焦燥と追慕を想い起こさせる何かがあった。

「これは・・・」

美しい眉根を僅かに寄せて呟くと、また、ざわと風が渡った。
と、同時に一斉に周りの桜が花開いた。

「・・・な に!!」

途轍もない妖気、圧倒的な力が一気に辺りを包み込む。
幾重にも重なる桜の陰からそれは近づいて来た。
ここまでの近接を許した己の油断に驚きつつ、其方を睨めば、その姿が幻から ( うつつ ) に転じる。
月の光を宿したような銀の髪を高く結い上げ、白い着物と妖鎧、そよ吹く風に僅かにたなびく己と良く似た白い毛皮。
《・・まさかっ・・》
月明かりがその貌の左半分を浮かび上がらせた。
妖しく光る金色の眸、頬に一筋 菖蒲 ( あやめむらさき ) の妖線。
《父上!?・・・》
眸を見開き、遥か昔に失くしたはずの、追い求めてやまぬ面影に、殺生丸は我知らずに手を延ばそうとした。

「殺、久しいの!」

その唇から紡ぎ出されたのは、低く透る懐かしい音色とは違い、低くはあるが明らかに女のそれであった。
されどその声音はすべらかな絹のように殺生丸の耳に心地良く響く。
よくよく見れば眉や口元が懐かしい面影のそれよりも僅かにやさしい。

「姉上か!」

「ほう、この姉の顔、見忘れていたかと思ったぞ」

そう言い放ち、にやっと哂らった。
殺生丸はその姿、面差しに微かに眩暈を覚えた。
若き日の父はまさにこのようで在ったのだろう。
自身より、性の違うこの姉のほうが姿・妖力・気性どれをとってもかの大妖に遥かに似ている。

「りっぱになられた。
  もう、殺などと気安く呼べぬな、殺生丸殿」

忘れていたわけではない。
けれど、記憶の片隅に故意に押し込めていたことに今更ながらに気付いた。

「姉上にはお変わりなく」

微かに声が震えたのを気取られただろうか。
突然目の前に現れた相手は、色あせたはずの永い年月を一瞬で飛び越えて、鮮やかに殺生丸の世界を覆そうとしている。

「いつ戻られた」

感情のこもらぬ殺生丸のその物言いに、ほんの少し眉を寄せる。
然も有りなん。
不在の年月は妖しにとっても短い時であったとは言えない。
まだ幼かった相手が今はりっぱな青年の姿で立っているのだ。

「ああ つい先日だ。
 西国の館におまえが居なかったので、ここまで探してきたのだよ」

柔らかく微笑うと先程までとは打って変わり、木洩れ日のように暖かい気配になる。
・・お変わりなく・・と定石に言ったものの、姉は別れた時より遥かに美しく、すっきりとした頬の輪郭、ほとんど鎧に隠されているが柔らかな躯の線も以前の少女らしいそれではなかった。
そして何よりどこか諦めたような静謐な透明感が殺生丸を揺さぶった。
だが変わらぬやさしい笑顔、懐かしき匂いが殺生丸を否応無く遥か昔に引き戻す。

幼き頃、殺生丸はいつも姉の後を付いて回っていた。
母を失くし、父は雑事に追われ忙しく、ほとんどまともに顔を見たこともなかった。
守役や世話をする家臣は居たが殺生丸はいつも独りだった。
そんな時、突然目の前にこの姉が現れたのだ。
見た目でゆうなら今の犬夜叉よりももう少し幼いくらいであっただろうか、

 



 

「殺生丸!(われ)はお前の姉の銀花ぞ。
  さあ我のところにおいで」

両腕を伸ばし破顔する、五月の日差しのような笑顔。
身近にある初めての肉親、溢れるばかりの無償の愛をくれる美しく賢い姉。
その妖力たるやすでに父妖と並び賞されるほどであった。
そんな姉を愛さずにいられるはずもなく、ほどなく殺生丸の世界は姉〝銀花〟で塗り込められた。

「あねうえ あねうえ どこにいらっしゃる?」

以前は寂しいと感じていたわけではなかったが、一旦手に入れた温もりは失うことなど出来はしない。
優しい腕のない日々など殺生丸にはもう考えられなかった。

「ここだよ殺、我はここにいるよ。
 まったく泣虫だな」

おいでと、いつものように腕を伸ばすその懐に転がり込むようにして抱きついた。
やさしく頭を撫でてもらってやっと落着つく。

「そんなことではどうする。
  父上のようなりっぱな大妖になれんぞ」

ほとんど涙目になっていた弟の眦を親指で拭い、溜息まじりにそう言う姉に

「なれなくてもかまいません」

「何を言う、殺は父上の跡取りぞ。いずれは一族を率いねばならぬ」

「姉上は、殺がりっぱになれば嬉しいのですか?」

「もちろんだ。嬉しいにきまっている」

「なら殺は、りっぱな大妖になりまする。だから、ずっと一緒にいて下さいね」

銀花の望みなら何でもする。
この美しい姉の喜ぶ顔を、己が喜ばせた顔を見たかった。

「ああ傍にいるよ、ずっと殺の傍にいるとも」

「今宵は姉上といっしょに寝てもよろしいか?」

銀花は、なんだという顔で

「ふーん どうするかな。
  大妖になられるお方が、姉の添い寝が必要だろうか?」

笑い含みで思案するふりをして見せる。

「殺が添い寝して差し上げるのです」

「おや、我はゆっくり一人で寝たいなあ」

「そんなことを言うなら、姉上とはもう一緒に寝てあげませんよ」

「もとより我はかまわないよ」

ふふふと、悪戯な笑みを見せる。

「姉上の馬鹿ぁ」

ひっくひっくとしゃくり上げれば、困ったように微笑んで

「泣くな泣くな、我は殺とずっと一緒にいるよ。そうだ今宵はどんなお話がよいだろうな」

優しく抱きしめ唇の端にやわらかく口付をくれる。
殺生丸は暖かくやさしい姉の腕の中でその言葉を微塵も疑うことはなかった。
穏やかな時が流れ、殺生丸が幼き日々のように銀花の後を子犬のように付いて回ることは無くなったが、一層その姿や気配を追いかけるようになっていた。
銀花への思慕は殺生丸の胸中に、やむことのない花吹雪のように軽やかに、匂やかに降り積もっていった。

「殺、おまえも大きくなった。
  我に教えられることは総て教えた。   もう我が居なくても自分の身くらい如何様にも守れるな」

「はい、勿論です。
  でも姉上、何故その様な事を申されるのです?
  何処かにお出かけになるのか?
  ならば、わたしもお供致しましょう」

「おまえを連れて行くことは出来ない。
  帰りも何時になるか分からない。
  我が行くのは海のむこうの大陸だから」

何時にない静かな口調に胸内がざわめく。

「どうして・・・そんな遠いところに・・」

「大陸から渡ってきた妖怪に聞いた。
  かの地には何物よりも速く天駆ける霊獣〝麒麟〟がいるそうだ。
  黄金の鬣を靡かせて駆ける様はそれは美しいらしい。
  観てみたいと思ってな」

気を取り直したように明るく話す銀花から、その口調と裏腹の危ういものを殺生丸は敏感に感じ取った。

「すぐに戻られるのでしょう?
  用が済めば戻られるのでしょう?
  姉上が戻られるのをお待ちします」

「待つことはない。すぐに戻ることもない」

「冗談でございましょう?姉上は何時もわたしをからかわれる」

「・・・・・・・」

何時もならあははと笑い
《そうだ冗談だよ、驚かしただけだ》
それで終わるはずが、銀花の口からそんな軽口が出る様子はない。
まさか、そんなはずはない。
姉が己を置いていくなんて。

「本当に行かれるおつもりか!」

「・・・・・・・」

「殺を置いて行ってしまわれると、そう申されるのか!
  姉上は殺を嫌いになられたのか?」

いつの頃からか銀花に子供扱いされたくなくて〝わたし〟と己を呼ぶようになったが、もう取り繕ってなどいられなかった。

「おまえを嫌うなどと、無論そんなことはない」

「ならば何故そのようなことを」

「・・・・・・・」

「ずっと一緒に居ようとおっしゃったのは偽りか!!
  姉上は殺を謀られたのか!!
  どうして、麒麟など探される!どうして・・・・!」

どれほどなじろうが、縋ろうが銀花は行ってしまうことをどこかで分かっている。
だからこそ、憤りと悲しみで目の前から色が無くなった。

「・・・頑是無いことを申すな、もう幼き子供ではなかろう」

そう小さく呟いた銀花の横顔が酷く寂しそうで、何故だか己のほうが悪いことをしたような気がして殺生丸はそれ以上責める言葉が出なかった。

それから数日後

「元気でな」

そうひとこと言い置いて、銀花は旅立って行った。
銀花が見えなくなった彼方を唇を噛み締めて見詰めていると、後ろに気配がした。
振り向くと、そこには父が立っていた。

「あれは、銀花は行ってしまったか」

「父上、姉上を引止めてください!!」

「鮮やかなる妖しの我が媛。
  何物にも囚われんもの・・・
  唯一あれの心を捉えることが出来るのは殺生丸、おまえだけなのだ。
  そのおまえが引止めること叶わぬならば、何をもってしても叶わぬであろうよ」

ほとんどまみえる事のなかった父に、殺生丸がこれほど近く接するのは初めてであった。
《なんと姉に似ているのか》
そう思うと堪えていた涙が零れた。

「泣くな泣くな、殺」

困ったように微笑んでやさしく頭を撫でられた。
そんな所作までよく似ている。
ますます涙が止まらなかった。

しばらくして、銀花の世話をしていた者の話から、あの時の姉の心内に初めて気付いた。
幼き時から妖力が強かった銀花は、赤子の時はともかくも、物心が付くと無邪気なままで周りに力を振るってしまう。
物事をわきまえ己を抑えられるようになるまでと、強い結界を張った離れ邸に閉じ込められるように育てられた。
母はすでになく、唯一ごくたまに訪れる父妖以外は誰にも触れることなく寂しく過ごした。
或る時、腹違いの幼き弟の在ることを知り、いつか逢える日が来ることを信じて孤独な日々を耐えた。
ただ幼い殺生丸が強い力を持つ己を惧れることが気掛かりだった。
が、やっと逢いまみえることが出来た幼い弟は、なんら銀花を惧れることなく慕ってくれた。
それがどれほど嬉しく、殺生丸との日々がかけがえのない物であったか。
けれど、長じてますます妖力の増した銀花を、一族の支配権横奪に利用せんとする輩が暗躍し始めた。
つまらぬ争いごとの火種に利用されるのを厭い、また、愛しい弟に危害が及ぶことを危惧して、話に聞いた麒麟を探すことを口実に大陸への旅立を決めたのだった。

《あの時、行くなと縋るわたしより姉上のほうがずっとお寂しかったのだ》

「姉上・・」

その時より父は、殺生丸を何かと気遣うようになった。
銀花を失った心の隙間を埋めるのに父の存在は大きかった。
姉に良く似た父、父に良く似た姉・・・果たしてどちらに強く惹かれていたのか・・

 



 

「どうした、殺。
 我の帰郷を喜んではくれぬのか ?」

あれから色々なことがあった。
銀花に捨てられたように感じていた時期もあった。
せめて恨み事、嫌みのひとつも言ってやろうか、それとも平然と冷淡にして見せるかとも思う。
だがそんなことを思っている段階で既に負けているのだと気付く。
寂しげな様子があの時と重なった。
殺生丸はもう抗うことはやめにした。
そして柔らかく微笑んだ。

「姉上、お帰りなさいませ」

それはこの妖しを知る総ての者が驚嘆するような優しき貌と声音だった。
懐かしきあの頃と同じように差し出された姉の腕の中に我知らず歩みよる。

「うん、ただいま殺生丸」

大きくなった弟を抱きしめる銀花。
懐かしい匂いが殺生丸の鼻孔を満たした。
今はもう殺生丸のほうが僅かながらに背が高かった。

 

第一話 花の帰還  おわり