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獄界の底に、妖しく光る剣が一振・・・
何故だ、何故こんな事になった。
あの大妖が逝った時、いよいよこれで〝吾が主〟の元に参じられる、そう思った。
あやつが生きている間、不本意ながらも十分に力を貸してやった。
それをあやつは死してなお、吾をじゃませんがため、次元の彼方に封じおった。
それほどに許せぬか、それほどに吾が、あの御方の手に握られるのが許せぬのか!
愛しい御方、今いずこにおわします。
ああ、今も初めてお逢いした時のことをはっきりと憶えている。
太刀掛けに措かれていた叢雲牙は、午睡を妨げる足音に、癇性に眉を顰めるようにした。
無論、本性である剣の姿の時に眉がある訳ではないので、実際には鞘に収まった刃が僅かに〝ちりん〟と鳴っただけである。
普通、太刀掛けに措く場合、柄を下方にするところを、叢雲牙は柄を上に向けて立て掛けられていた。
〝たん〟と、戸が開けられ差し込んだ日差しが柄の珠に反射する。
戸口に逆光で立つ相手から漂う気に叢雲牙は驚愕した。
そしてそれがまだ稚いとさえ言える少女であることにさらに驚く。
だがすぐに総てを理解した。
そして強く心を奪われていた。
深い清冽な泉のごとき妖力、そして最深部には比重のまったく違う流れが密む。
その冷たく重くたゆたう力こそが、
《御身は〝犬の長〟のお子か?》
いきなり頭の中に響いた声に僅かに驚いたようであったが、すぐさまそれが太刀掛けの剣からの声であることに気付く。
「おまえは父上の剣、叢雲牙であろう」
《いかにも。
ですが〝犬の長〟の剣というのは些か違いまする》
「だが、父上だけが獄龍破を撃てると聞いている」
《吾は使い手を選びまする。
〝犬の長〟には吾を使う力量がある、それだけのことでございます。
決して仕えているわけでも、所有されているわけでもございません》
「ふぅん、なかなかの矜持だな。
おまえが頭を垂れるのは唯一己自身というわけか」
《いいえ、他にちゃんとおられます。
それを確かめてみたいのです》
「確かめる?」
《媛様、ひとつやってごらんになりませぬか。
どうぞ吾を鞘から抜き放ってみて下さいませ》
「我の力量を計るつもりなのか」
《さようにございます》
「よかろう」
しゃらんという音も涼しく抜き放たれた叢雲牙の刀身が、開けられたままの戸口から差し込む光りに清艶に煌めく。
なまなかでは鞘から抜くことも出来ず、まれに出来たとて操られるのが落ちであるのを、片手でやすやすと構えた。
《おお、やはり吾の眼に狂いはなかった。
御身こそが仕えるべきお方》
「我がおまえの主だと?」
《御意、そのお力が吾を解放し膝折らせる。
ひとめ見た時から感じておりました。
が、血の封印がじゃまではっきりいたしませず、試すような仕儀になり申し訳ございません》
叢雲牙を鞘になおし、元どおり太刀掛けに戻した。
怪訝そうな面持ちの声は幾分低くなる。
「おまえ、何故知っている。
我の力の封印が血でなされたと誰に聞いた」
力を封印された事を知る者はいる。
けれどそれが血によってなされたことを知っているのは、施術した父妖と己だけであった。
《誰に聞いたわけでもございませんし、何故と問われても返答出来ませぬ。
唯、分かるのでございます。
そしてこの叢雲牙が膝を折るべきは御身であると》
「なるほどな。
〝禍つ力の凶媛〟と徒名される我と〝古の邪悪なる剣〟と呼ばるるおまえとなら、似合いと言えば似合いかもし
れぬ」
その言葉には僅かに自嘲めいたものが含まれている。
《媛様、愚か者はすべからく理解出来ぬもの、推し量れぬもの、己よりも遥かに優れたものを惧れ厭うものなのです。
御身は総てを睥睨し君臨すべき御方》
「我は他より優れているわけではない。禍々しい悪しき力を持っているにすぎない」
《悪しき力ですと?
ならば何が悪で何が善なのでしょう。
人間どもからすれば妖しは悪となっておりますが、では、媛様も〝犬の長〟もみな悪なのですか?》
「それは・・」
《立場や見方が変われば悪も善になる。
所詮、弱者のひがみ遠吠えに過ぎません。
小賢しい下等生物など踏みにじってしまえばよいのです》
「おまえの言うことは正しくもあり間違ってもいる」
《吾には媛様のお力は、燦然たる星々の煌めきのごときに感じられます。
地を這う蛆虫どもにはその美しさは解りますまい》
「そのように言われたのは初めてだな。
かなり片寄った見方をしているようだが」
《今すぐにとは申しませんが、いずれ吾を御身の剣になされて下さりませ》
「・・・考えておこう」
《また、おいでいただけましょうや》
「本当はここに来てはいけないと父上に止められている。
だが、おまえが望むならこよう」
《媛様、御名をお教えいただけますか》
「銀花だ」
《銀花様、お待ち申し上げております》
その後、銀花は幾度か叢雲牙の元を訪れた。
己を惧れぬ叢雲牙との語らいはひどく気安く、また永い時を経てきたその話は興味深かった。
誰も教えてはくれないこと、誰も知らぬことを叢雲牙の言葉から得ることが出来た。
だが、排他なだけでなく、完璧に他を見下す物言いに、苛立つこともしばしばだった。
そして叢雲牙にとっても、日増しに美しく強く賢くなっていく銀花の姿を見ることは無上の喜びであった。
近付く足音が待ち侘びる相手のものでないことに
それが誰のものか分かると気が尖った。
そして相手が戸を開ける前に、叢雲牙は人型に変化した。
室内に入って来た美しく精悍でもあるその貌は、不機嫌に歪められている。
耀う金の眸が射る先には、宙空に寝そべるように浮かんだ、人型があった。
「叢雲牙よ、いったいどういうつもりなのだ」
「なんの話だ〝犬の長〟」
「とぼけるつもりか、わが媛に近付いてどうするつもりだ。
いずれ邪なことを企んでいるのだろうが、おまえの思うようにはならんぞ」
「はっ何をか言わんや。
媛様はこの叢雲牙を好もしく思い、話をするのを楽しみにして下さっている。
きさまのしゃしゃり出る幕ではないわ」
「それこそよまい言だな。
己が意志でここに来ているとしたら尚のこと、それは銀花の単なる好奇心からだ。
おまえを好もしく思うなど有り得ぬな、片腹痛い」
「はぁん、それはきさまの願望か、それとも嫉妬か」
「あれの魂は強く清廉なのだ。
おまえだけではない、つまらぬものが奸計を巡らしたとて、どうこう出来る相手ではない」
「たいした信頼だな」
「親馬鹿だとでも」
「いや。
きさまに子が在ると知った時、まずは矜持だけは高い鼻持ちならぬ小面憎い餓鬼を思い浮かべた。
はたまた粗野で考え無しの猪突猛進馬鹿小僧だろうとな。
だが、みごとに外れた。
媛を見た時は驚いたぞ、本当にきさまの子なのか?」
「よく似ておろう」
「似て非なるものだ。
媛は強く麗しく、この叢雲牙こそふさわしい剣と言えよう」
腰まで届く波打つ髪は燃えるような紅。
尊大な眸は血の赤に煉獄の炎の朱が煌めいている。
「叢雲牙、よもやその姿で媛の前に顕現したのではあるまいな」
酷薄端正な貌に、長身で逞しい肉体の姿は、艶麗でさえあるが、一糸纏わぬ素裸であった。
「媛の前に裸で顕れるほど厚顔ではないわ!
だいたい誰のせいだ、誰の!
きさまは吾が、好きで裸でいるとでも思っているのか」
叢雲牙の措かれている部屋には結界が張られていて誰も出入り出来ない。
銀花が入ってこられたのはやはりその強い力の故であった。
また叢雲牙の力を抑制するために、鞘にも呪が掛けられている。
そのために人型に変化できても、衣を創り出すことは出来なかった。
「まかり間違っても、その姿を媛に晒すなよ。
もし晒してみろ、おまえのそれを叩き切る。
まあ、その心配はもうなかろうが」
「きさま、媛をここに来させぬつもりか!」
「当然だ。
あれの魂は強いと言ったが、万が一にも傷ついたり悪影響があっては困るからな」
「きさまは分かっているようで何も分かっていないのだな。
媛の魂は強く傷つかぬのではない。
無数の傷を負っていてもしなやかだから折れぬだけだ」
叢雲牙の言葉に眉を顰めたが〝犬の長〟は無言のまま戸を閉ざすと歩み去った。
そしてその後再び銀花が訪れることは無くなった。
数年後の桜の花が散りはじめたある朝、突然姿を見せた銀花は叢雲牙に別れを告げた。
《媛様、吾の力が必要になったなら、どうか吾が名をお呼び下さりませ。
必ずやそのお声に
「覚えておこう。さらばだ叢雲牙」
《ああ、必ずやご無事で御戻り下さい》
あやつは一体どういうつもりなのだ。
殺生丸に天生牙を、犬夜叉に鉄砕牙を残した。
さすれば後はおのずと知れたこと、吾、叢雲牙は、『かの麗しの媛、銀花様』に委ねられるのが筋であろう!!
莫迦息子共にはそれぞれ牙を残したが、娘には何も残さんというのか。
いったい全体どういう了見なのだ!!
確かにあやつが逝った時、かの媛はこの地に居られなかった。
それゆえ戻られるその日まではと、二百年もの間、異界でお待ち申し上げたのだ。
これ以上は我慢の限度と、半妖の末息子に取付いてこの地に戻るも、媛の気配が何処にもない。
まさか御身に何か遭ったのか、こんな事ならあの時に是が非でもお供すれば良かった。
それを許さなんだのはあやつだ!死したとて許さぬ!誰が許そうが吾は許さぬ!!呪ってやる、屍をも呪ってやる!
しかし、苦しむ姿を見ることも出来ぬでは面白くもない。
ならばせめて天生牙と鉄砕牙を莫迦兄弟ともども屠ってくれる・・・
と思いきや・・・それが・・・それが・・・何を血迷ったかあの莫迦兄弟、天生牙と鉄砕牙の力を併せただとぉぉぉ!
いがみ合っていたのではないのか、それを土壇場になって力を合わすだと、まったく節操のないやつらだ。
最後までいがみ合う気概も無いのかぁぁぁ!
うぅぅぅぅ痛恨の極み、無念なり無念なり。
あぁぁぁこんな獄界に封じられていてはあの御方が戻られても馳せ参じること叶わんではないか。
媛様、必ずここを抜け出でて御前に参じます。
どうか、しばしお待ちあれ。
そしてその時には、白く麗しいその御指で吾をやさしく、強く握って下さりませ。
さすれば吾は獄龍破を
そしてきっと媛様は甘やかな吐息と共に
「叢雲牙ご苦労であった、きつくはなかったか」
と労い、やさしく微笑みながら刃に残る血を唇ですくい取って下さるに違いない。
なんという至福・甘美なるひと時・・・・
何としてでも何としてでもお側へ・・・・銀花さまあぁぁぁ
妄想爆裂・・・響き渡る怪しい呻き・・・邪悪なる剣、叢雲牙・・・・獄界の中心で愛を叫ぶ