第十九話 供 血 其の一

 

優美な弧を描く眉を僅かに顰めて、物憂い様子で殺生丸は己が爪を噛んでいた。
その姿を眺めやりながら、銀花は堪えようもなく、くつくつと笑ってしまう。

「何ですか、姉上」

「くっくくく、いや変らんな殺。
 おまえは幼い時から深く考え事をすると爪を噛む癖がある」

銀花の言葉に、はっとした殺生丸は口許にあった手を下ろし、きまり悪そうにした。

「どうした、何を考え込んでいる」

「大したことではありません」

「大したことでなくて、おまえが爪を噛むか?
 さっさと白状しろ、でないと非道いぞ!」

「本当に些細なことで、姉上に申し上げるほどのことでは無いのです」

僅かにうろたえながらも、話そうとしない殺生丸に、銀花の眸は冷酷に綺羅めく。

「ほう、どうやらおまえは我と戯びたいと見える」

条件反射でびくりと躯を強ばらせた殺生丸を、庇うように可愛らしい声が掛った。

「銀花姉様、殺生丸様を苛めてはいや!」

その声に銀花は俯くと、優しく微笑んだ。
銀花は先程から、殺生丸の養い子である人間の幼女を膝上に乗せて、その黒髪を手櫛で梳いてやっていたのだ。
銀花は、己の不在の間に堅く凝ってしまったらしい殺生丸の心を、この幼女が解きほぐしてくれたことが嬉しく、無邪気で暖かい笑顔の幼女を愛していた。
幼女もまた、主である殺生丸によく似た美しい銀花を敬愛していた。

時折見せてくれる殺生丸の優しさは、どこかぎこちないが、滲み入るように心を暖かにしてくれる。
そして、銀花の与えてくれる愛情は、直接的で、とことん甘やかすそのやり方は、自分が〝特別〟な存在になったように感じさせてくれて心が浮き立った。

「りん、心配しなくても殺を苛めたりしない。
 でも、言うことを聞かない時は少しばかりお仕置きをしなくてはいけないだろう?
 無論痛い思いをさせたりはしない、安心おし」

「本当に?」

「ああ、本当だとも」

「じゃあどうするの?」

「まずは動けぬように手足を縛り、着物をはだけて素肌に直接、えのころ草でもって急所をこう、こちょこちょと」

「姉上!」

幼子にとんでもないことを伝授し始めた銀花に、殺生丸は慌てて制止の声を発する。

「わぁ何だか楽しそう、それから?」

「うむ、楽しいぞ!
 始めは厭がっていてもしだいに心地よくなってきて、悦びの声を()げはじめる。
 それは佳い声でな」

「姉上!」

「なんだ?」

「・・お話がございます・・・」

消沈したように項垂れる殺生丸に、銀花は満足そうに〝にや〟と嗤う。

「りん、蒼鉛が菓子を拵えている。
 今日の菓子は山葡萄を使ったものだ。
 美味しいからきっとりんの気に入る、行ってもらっておいで」

「はい、銀花姉様」

素直に頷いて駆けだしていく後ろ姿を、銀花は優しく見送る。
殺生丸は、無駄と分かってはいるけれども、一応釘を刺しておくことにした。

「姉上、りんに妙なことを教えて下さるな」

殺生丸はことさらに渋面を作って睨んでみたが、銀花はいっこうに気にする様子もない。

「ふふ、我のようになってしまっては困るか。
 で、何が気に掛る?」

「姉上は〝鬼包丁の祭祀〟をご存じで?」

「ああ、〝血盟の祭祀〟か。
 確か、先の望月の夜から始まったと思うが・・
 明日と明後日が〝供血(きょうけつ)〟の儀式だったか」

「明後日は望月です。
 姉上には如何為されるおつもりです?」

「そのことならばもう大丈夫だと申したであろう。
 それに、よしんば彩扶錏が必要になったとしても、儀式は夜半過ぎには終わる。
 間に合わなければ殺、おまえがなんとかしてくれるのだろう?」

銀花の言葉に、殺生丸は羞恥して眸を伏せるが、すぐに真顔になって言葉を継いだ。

「気に掛ることがございます。
 先の望月の夜、姉上を追って琵琶の湖に降り立った時、儀式の舞台のすぐ傍、湖面上に闇の穴が開いたのです。
 そこから妖しが数十匹現れました。
 雑魚妖怪ばかりでございましたが、あの穴はやつらごときに成せる代物ではない。
 ある種の結界のようでもありましたが、穴の中には気脈が渦を巻いており、異質なものを感じましたました」

「気脈が渦を巻いていた・・・それはまるで、・・(しょく)のようだな」

「蝕とは・・?」

「まあ、時空を通り抜ける通路のようなものだ。
 自然発生した空間の乱れが時空の狭間に通路を穿つのだ。
 そして周りに甚大な被害を及ぼす。
 それに巻き込まれて人や物が異界に流されたりするが、一時に数十匹の妖しが這い出だしてきたのだとしたら
 唯の自然現象ではあるまい。
 だが任意に蝕を起こせるものは麒麟くらいだから、おまえが見たのは蝕とは違うのだろうが・・・」

「では〝骨喰いの井戸〟は蝕なのですか?」

「そうだな、固定された蝕と言えるかもしれん。
 後からそこに井戸を成したのだろう」

「姉上〝供血〟の後は、あやつの妖力も衰えると聞きます。
 そこにあのような穴が開き、妖しが這出だしてきたとしたら・・・」

「そのために周囲を鬼族の軍が固めているのだ。
〝鬼哭の剣〟の性質上〝供血〟が終わるまでは彩扶錏以外の鬼は、傍近くには寄れぬが何かあった時にはすぐ
 さま駆けつけられる距離に控えている。
 それに、妖力が衰えると言っても彩扶錏の力は強い。
 なまじなものには討つどころか傷ひとつ負わせられぬよ」

言いながら銀花はふと考え込んだ。
そう、瞬時に討ち取ってしまわなければ、すぐさま周囲の鬼軍が押し寄せる。
しかし妖力が衰えた時といえども、彩扶錏を瞬殺出来る妖しは今の日ノ本にはいない。
だがそれが、日ノ本の妖しでないとすれば、そして滅することが目的でないとするならば・・・

「なあ殺、おまえが彩扶錏のことを気遣うとは、どういう風の吹き回しなのだ?」

「別にあやつを心配したわけではございません!
 ただ、姉上のお耳に入れておこうかと・・・」

「そうだな、他にも些か気になることもある・・・
 どうだ殺、ひとつおまえが行って様子を見て来てくれぬか。
 場合によっては彩扶錏を守ってやるがよい。
 殺なら何か起きた時に瞬時に彩扶錏の元へ跳べるだろう」

「何故わたしがそんなことをせねばなりません」

「嫌か?」

「言わずもがなでしょう!」

「ならば致し方ない、我が行くか」

「とんでもない!
 そんなことをなされてはあの阿呆はとんでもない勘違いを致しましょう。
 そんなことならわたしが参ります。
 ですが、先程おっしゃったでしょう、あやつを討てるようなものはいないと!
 ならば捨て置かれればよろしいのです。
 こんな話を持ち出したわたしが莫迦でした!」

「ふふ、そうかな」

銀花は、殺生丸が反目しているとも言える彩扶錏を気遣う素振りを見せたのが嬉しかった。
殺生丸は再び、つと眉を顰めた。

 



 

湖岸から径路が湖の中程に向けて続いている。
床板は水面から僅かに上の位置に、何の支えもないままで浮いていた。
径路の先には三間四方の空間があり、そこは京の鬼族が年に一度行う〝血盟の祭祀〟の最も重要な儀式である〝供血〟が執り行われる舞台である。
太陽が西に大きく傾き始めた今、径路に沿って所々に据えられた篝に、一斉に炎が燃え上がった。

湖畔に佇み、じっと湖上の舞台を見詰めている姿がある。
すらりとした体躯を雅な狩衣に包む青年の髪は、この時代、日ノ本に住まう人間には無い、妖しであっても稀なる豪奢な金色であった。
その髪が、夕日を受けてさらに燦爛と輝いている。
美の匠が丹念に創り上げたような貌の造作は完璧で、美姫と見紛うばかりであるが、強い意志を宿した明眸が些かの女々しさも感じさせない。
今は、きつく眉根を寄せて不機嫌な表情を作っているけれど、陰影に縁取られた美しい貌は、見る者に笑顔の時などよりも返って深い感銘を与える。

「お館様、そろそろ邸にお戻りなされませ」

黙って主の横貌を見詰めていた従者は、落ち着いた静かな声を遠慮がちに掛けた。

「此度の〝供血〟の儀式、なんとか日延べ出来ぬか?」

「如何とも」

間髪を入れずにきっぱりと答えた相手を、正面に見据えなおした貌は、更に不機嫌に苛立ち、押し殺してはいるものの、裡にある怒りが青い眸にちらちらと耀よっている。

「明日はよい、だが明後日だけは何とか出来ぬのか!
 それとも明日に二晩分を一気にしてしまうか!」

「それではお館様の躯が持ちますまい」

「かまわん!」

「ご無理をおっしゃる」

「我ら鬼族の力が盤石となった今〝鬼哭の剣〟の力も〝蛟の後ろ盾〟も、もはや無用だ。
 今日限り〝血盟の祭祀〟は終わりにしてもよい!」

「それでは剣に宿る〝魔〟の力が失われます。
〝鬼哭の剣〟は戦いに於て、お館様を守る武器でございます」

「阿弖流為 きさま、わたしを侮るか!
 そんな剣などなくとも、如何様にも戦える」

射殺すばかりの視線で睨み付けてくる主の貌は、美しいが故に怖気るほどの凄味がある。
その底知れぬ冷たい青眸に射抜かれて、平然としていられるのは、彩扶錏の〝傅〟であった小角の他は、この阿弖流為と呼ばれる左大臣職にあるものだけである。

「〝鬼哭の剣〟をお捨てになると?」

「捨ててもよい!」

「お館様はそんなことは為さりませぬ。
 愛しいものを守るためには、妖力を何十倍にも高めてくれる武器が必要であることをよくご存じでございますから」

「くっ・・」

阿弖流為の指摘は、的確に彩扶錏の痛いところを突いている。
だが痛いところを突かれると妖しであろうと人間であろうと痛いのである。

反論する言葉はないが、手に持っていた蝙蝠(からほり)をへし折ることで、不快を表わした。

阿弖流為は苦笑しながら、折れた蝙蝠を取り上げ、折れ口の鋭く尖った骨芯に傷つけられ僅かに血が滲む主の美しい手を見た。
その気になれば、こんな傷など瞬く間に治してしまう力がある彩扶錏だが、今は不機嫌にそっぽを向いたままで治す気がない様子だ。
阿弖流為は己が懐から取り出した布を手早く巻き付けた。

「お館様がそれほどに〝明後日〟に拘わられるのは、望月の夜にお通いになってくるお方のためでございますか」

「・・・知っていたのか」

「察しはついておりました」

彩扶錏はこれまで数々の浮き名を流していた。
他種族の媛、鬼族の名家の媛、はては人間であっても、気に入ったものならば身分種族に拘ることなく抱き寄せる。
そしてその愛を拒んだものは未だかつていない。
だが気紛れに通う逢瀬は、三日に明けずに通うこともあるが、たった一度のこともある。
時には、臣下の女に、夜伽をさせることもあった。
嫌がる相手を無理矢理召し上げることは決してしないが、こちらも誘いを否と拒むものはいないどころか、彩扶錏の目に留まりたくて、本殿や私邸の侍女になりたがるものは引きも切らない。
最近の夜伽は侍女達の競争心からのいざこざを避けるため、もっぱら鬼族一の美女の誉れ高い〝羅刹〟が召されることが多い。
どちらにせよ一度でも彩扶錏の寵愛を受けたものは決して忘れることは出来ないのだ。
いつの時代もつれない相手を待つのは苦しく、切ないものだが、方々から次の訪れを乞う切々たる想いの綴られた文が大量に届いている。

それが、このところどちらにも通わず、誰も召し上げもしないので、『お館様不能説』などと言う馬鹿馬鹿しい噂話まで飛び交う始末である。
なにやら頻繁に切ない溜息を吐いて物想わしげにしている彩扶錏だが、その悩ましい姿はまた新たな波紋を呼んでもいた。

比叡の私邸の若い宿直役のひとりは、泣きながら上役に辺境警備隊への配置換えを訴えてきたという。
比叡の私邸の警護は、酒呑童子率いる彩扶錏の近衛を兼ねる左軍とは別に、若く忠義心に厚く、力あるものだけを彩扶錏自らが選りすぐった親衛隊が勤める。
故に尚更のこと主への思いは深いのだが、口を噤むのを無理矢理聞き出したところ
『あさましい妄想を主に抱いてしまった己が許せない』
という理由なのが哀れであった。
多かれ少なかれ皆、強く麗しい主に恋情を持っているものだが、若く純粋で誠に彩扶錏に傾倒しているからこそ真面目に悩んでしまったのだろう。
それほどに近頃の彩扶錏は禁欲的でありながら、とてつもなく艶めかしい。
阿弖流為は、あたら若い芽を潰したくないので、隊を抜けさせるのではなく、暫くの休養と気分転換だけを申しつけた。
そのうち免疫も出来ようというものだ。

当の彩扶錏は物憂い様子が望月の夜が近づくと、今度はそわそわと落ち着きがなくなり、件の日には昼前から〝月の臺〟に籠もってしまう。
強い結界に覆われた月臺に近づくことはできないが、あちらの花、こちらの花と気儘に渡り歩いていた主が、唯ひたすら待ちわびるのは〝銀の花〟であろうことは、阿弖流為には容易に察しが付いた。

「〝供血〟の儀式は夜半過ぎには終わります。
 お待たせしてもほんの数刻、わざわざ遠くお通い下さるのです。
 それくらい、お待ち下さいますよ。
 もっともお力が回復するまで、直ぐには役に起たぬやもしれませんが」

きわどいからかいに、いつもなら艶のある応えを切り返してくる彩扶錏が、ふと眸を逸らせたのに阿弖流為は〝おや〟という気がした。

彩扶錏は阿弖流為に悟られぬように背を向けたままで、小さく息をついた。
銀花が、遥々東国から通って来るのは〝躯の熱〟を取り戻すために彩扶錏が必要なだけであって、決して彩扶錏恋しさ故ではない。
必要な時にいない〝役立たず〟を銀花が待ってくれるとは思えないし、それよりも待つことが出来るかも気に掛る。
もし待てないとしたら、銀花はいったい誰を替わりにするのか・・・
そうなれば己は〝捨てられる〟のだろうか?
彩扶錏の脳裏を小面憎い嗤いを浮かべた〝麒麟と銀妖〟が掠めた。

「いやだあぁぁぁ」

突然の嬌声に運悪く近づいてきた左軍将軍・酒呑童子は飛び退った。
阿弖流為の方は怪訝そうに彩扶錏の貌を窺っている。

「お館様、どうかなされましたか」

彩扶錏は取り繕うために、老若男女を問わず熱く蕩かすと謳われる微笑を無理に造った。

「ふっ 何でもない」

だが、それはどうやら成功しなかったようだ。
酒呑は〝びく〟と躯を震わし、見てはいけない物を見てしまったように眸を逸らす。
阿弖流為はさらに探るような目付きであるが、その眸に僅かに嗤いが含まれているように感じるのは気のせいであろうか。
この寵臣の能力と忠心は疑うべくもないが、ともすれば主をからかう種を捜しているようなところがあった。

 



 

「わあ、綺麗」

人間の幼女は目の前に置かれた自分用の新しい着物を見下ろして喜びの声を挙げる。

「着てごらん、りん」

「はいっ銀花姉様」

銀花は空間に漂う素粒子から容易く着物を造りだすことが出来た。
実際、銀花の纏っている着物や鎧もそのように造りだした物である。
無論、何でも造れる訳ではないし、妖力によって造りだされた物であっても、出来てしまえばただの物質であるから、汚れもするし破れもするが、鎧には特別に力を持たせてあるので妖鎧として躯を守ってくれる。

だが、銀花はこの幼女に物を与えるにあたって、なるべく人間の手になる物を与えてきた。
特段に深い意味があるわけではなかったが、手間暇を掛けて作られた物の方が、この暖かな幼女には相応しい気がしたのだ。
そのために銀花は、人間には見つけにくく高価とされる薬草を手ずから摘み、それをわざわざ人間に化生して金子に換えて、それで着物を贖った。

幼女はそんな事までは知らないが、その優しい感性で何かを察しているのか、常には美しいばかりの銀花の指先が僅かに草色に染まっているのを見つけると、小さな手で握りしめてくるのだった。

「銀花姉様、ありがとう」

「うん、とてもよく似合っているよ、りん」

嬉しそうにくるくると回って見せる幼女に、銀花は貌を綻ばせ

「皆に見せておいで」

と勧める。

「殺生丸様はお出掛けなんです」

「おや、何処に行ったのだ?」

「えっと、何て名前だったかな、大きな湖だって・・」

「琵琶の湖か?」

「はい、その湖です。
 りんも行きたいってお願いしたら、今日はだめだって」

「そうか」

なんだかんだと言いながら、結局は行ったのだなと、銀花はほくそ笑んだ。
これで大したことも起こるまいと微かに安堵する。

「りんも、大きな湖を見てみたかったな」

「ならば今度、我が連れて行こう」

「本当に、銀花姉様?」

「ああ、約束だ。
 そうだ、近江に行くなら京の都にも連れて行ってやろう。
 京は賑やかで、りんが見たこともない珍しいものや、美しいものも沢山あるよ」

「わあぁ、愉しみだなあ」

京では欲しがる物を何でも買ってやろうと、銀花は思う。
もっともこの幼女は、慎ましやかでほとんど物を欲しがったりはしないのだが、それなら少しでも気を引いた物を片端から買い与えればよいことだ。
そのために、近々にまた薬草を採りに行こうと銀花は算段した。

 



 

「何故わたしがこんな処にいる」

殺生丸は既に数度目にもなる同じ自問を繰り返していた。

そもそも話しの取っ掛かりを作ったのは殺生丸であったが、こんなことになるとは予想だにしていなかった。
〝あやつ〟の()りをするなど腹立たしいかぎりである。
しかし、銀花が出向くなどということは、さらに気に入らない。
したがって不本意ながら己がここにいる。

「・・・しかし、何故わたしが・・」

またもや無意味な自問に突入していこうとしていた。

殺生丸は気付いていない。
今も昔も、口にされようが、されまいが躯が勝手に反応してしまう。
『姉の命令』には逆らえない。
既に絶対の服従が殺生丸の躯に刷込まれているのだ。



太陽が傾き、辺りの空気が黄金色から薄紫色へと移ろっていく。
茫洋と紗の掛ったような〝逢魔が刻〟篝火が幽玄に揺らめく径路を、烏帽子に直衣姿の〝鬼の長〟が進み出で、舞台の真中で〝鬼哭の剣〟を掲げた。

岸辺の木陰からは、湖上の舞台までかなりの距離があったが、殺生丸には、彩扶錏がきつく眉根を寄せているのも手に取るように見えた。
その向こうの対岸には、鬼の軍団が大挙して控えている。
過去に儀式の際、傍近くに控えていた鬼達の血の匂いに暴走した〝鬼哭の剣〟によって数多の鬼が贄に散った事件があった。
以来〝供血〟の儀式の折りには充分に距離を取り控えるようになったが、見守る鬼共の貌は、皆一様に主を気遣っているのがはっきりと見て取れた。

「ふんっ!
 あれでも臣下には慕われているとみえる」

殺生丸が独りごちた時、舞台に変化が起きた。
〝鬼哭の剣〟の裡より出でた〝気〟が、陽炎のように揺らめき、彩扶錏の躯を押し包むと、すうと霧散していった。
後には、彩扶錏の姿も〝剣〟も無くなっていた。

「始まったか・・・」

殺生丸は、金色に耀よう眸を僅かに警戒したように眇めた。

対岸に、同じく警戒の色を濃くした眸で、舞台を見詰める姿があった。
彩扶錏が〝長〟に就いて数年後に、阿弖流為は左大臣という地位に就いた。
それにともない間近に〝供血〟の儀式を見守るようになって、当事者である主よりもその儀式を厭うようになっていた。
あの陽炎の裡で、いったいどのように〝供血〟という、妖力を差し出す行為が行われているのかは解らない。
彩扶錏自信もまったく憶えてはいないのだが、現に戻った時に、一番に駆けつける阿弖流為は毎回、一瞬ではあるが、誇り高い主の眸に傷ついたような色が宿るの見ることになった。
彩扶錏が〝血盟の祭祀〟をやめると言いだした時は、心情では是非もなかったのだが、それでは、彩扶錏を守る〝剣の力〟が失せてしまうので〝否〟と言うより他なかった。

確かに彩扶錏の妖力は強い。
けれどそれだけでは充分ではない。
殺生丸や犬夜叉に、そして銀花にもその妖力を十二分に活用出来る〝妖刀〟がある。
彩扶錏にも躯を守り、戦える〝武器〟が必要なのだ。
皮肉なことに、彩扶錏が毛筋ほどの傷を負わないためには、彩扶錏の何かが傷つくことになろうとも、どうしても〝鬼哭の剣〟は必要だった。
阿弖流為は、我知らずに爪が食い込むほどに拳を握りしめていた。

「お館様・・・」



ゆっくりと東の空に姿を現した十四夜の月が、すでに中天を超えようとしていた。
そよとも風の吹かない水面は、鏡のように滑らかで、まるでもうひとつの月のように天空の月影を映し出している。

舞台の上で、何かがゆらりと歪んだのを殺生丸の眸が捉えた瞬間、彩扶錏の姿が具現し始めた。
重い躯を持て余すように、膝を付き、剣で支えるようにしている。
かなり消耗しているようだ。
そしてそれを見透かすように、舞台の横の湖面、篝火が届いて明るい筈の位置に、陰のように闇の穴が広がり始めていた。
考えるよりも速く地を蹴った殺生丸が、舞台に降り立ったのは瞬きするよりも短い瞬間だったが、彩扶錏の躯はすでに黒雲に巻き込まれて闇の穴に引きずり込まれようとしていた。

思わぬ姿を見留めて彩扶錏は眸を瞬く。

「何故あなたがここに、殺生丸?」

消耗していると言っても、強い妖力を持つ彩扶錏が抗うことも出来ずにいる。
殺生丸の本能がちりちりと警告を発していた。
夢中で彩扶錏の手首を掴み引き上げようとする。
けれど不吉な黒雲は、殺生丸の躯をも舐めるように這い上がるとじわりと巻き込み始めた。

「離しなさい!
 あなたまで呑み込まれますよ!」

「無駄口叩かず、力を出せ!」

彩扶錏は残っていた力を振り絞り引きずり込もうとする力に抗った。
だが黒雲は彩扶錏と殺生丸をすっぽり抱き込むと、あっという間に穴の中に呑み込んでいった。

 

鬼の兵士達が駆けつけた時には、すでに主の姿はなく、依然として湖面に黒い穴はあったが、堅く閉ざされたようで、もう後を追うことは出来なかった。

舞台の上に、ぽつねんと残された剣に眼を止めた阿弖流為は、傍によって腰を屈め取り挙げようと手を伸ばす。

「左府、その剣はお館様にしか扱えませぬ!
 怪我をなされますぞ!」

酒呑の制止も聞かず、取り挙げたとたん、掴んだ柄あたりから拒絶するように雷が燦めく。

「くっっ、お館様をお救いするためだ、力を貸せ〝鬼哭の剣〟!」

言うなり浮上して、黒々とした闇の穴に剣を突き立てた。
僅かに隙間が開いたかに見えたが、次の瞬間、阿弖流為は剣もろとも弾き飛ばされていた。
腕の毛穴からぷつぷつと血玉が吹き出していたが、かまわず再び剣を掴むと、血は筋状になって剣の刃に吸い込まれていく。

「わたしの血を全てくれてやる!
 その代わり、あの闇を切り開け!」

渾身の力を込めて再び剣を突き立てた。
けれども、闇は僅かな隙間を見せるだけで、それ以上はどうにもならない。
繰り返し挑む阿弖流為の貌は徐々に血の気を失い、蒼白になってきていた。

酒呑は瞠目した。
皆が動揺していたし、己もそうではあるが、常には飄々としながら圧倒的な知識と知力で何事にも動じないこの阿弖流為が、これほどまでに取り乱すのを初めて見たからだ。

「左府、後はわたしがやりまする」

酒呑は、さらに向おうとする阿弖流為から剣を取り上げる。

「・・・酒呑」

雷でもって触れることを拒絶するのと、裏腹にもがっちりと腕を捕らえ吸血するふたつの痛みに貌を顰めつつ、唇の端でにやりと嗤う。

「この酒呑、血の気が多い故、少々血抜きをしたほうが丁度よいでしょう」

酒呑の言葉に「われも!」「われも!」と、他のものも次々に名乗りを上げた。
だが、隙間はいっこうに拡がらず、無為に時だけが過ぎていくのだった。

「お館様・・・どうかご無事で・・」

阿弖流為は噛みしめた唇から呻くように呟いた。

 



 

〝ひーん〟

闇を通して小さなすすり泣きが聞こえる。
人間には当然ながら、妖しにも聞き取ることが難しい微かな空気の振動に、銀花はすぐさま夜具を払い広縁に出ると、声のする部屋に向う。
夢に身動ぐ躯を優しく揺すって起こしてやった。

「どうした、りん」

銀花は暗闇の中でもなんら不自由なく視ることが出来るが、幼い人間の子供を落ち着かせるために、灯りをひとつ(とも)した。

「銀花姉様・・・」

「怖い夢でも見たのか?」

「・・・よくは憶えてないの、でも怖い夢だったと思う。
 ねえ、銀花姉様、殺生丸様はまだお帰りではないの?」

「ああ、まだだ」

〝供血〟の儀式は夜半には終わる。
今は卯の刻も半ばであった。
すでに戻っていてもよい時刻であるが、まだ取り立てて何かあったと確するほどに、遅い戻りというわけでもなかった。
だが、銀花の胸に獏とした予感が拡がりはじめる。

「銀花姉様、殺生丸様をお迎えに往っては下さらない?」

「りんは、迎えに往って欲しいのか」

「・・はい」

その言葉に、銀花の嫌な予感は明確なものに変わった。
部屋の外に向けて静かに声を掛ける。

「蒼鉛」

「ここに」

「出掛ける、供を」

「すぐに〝號鉄(ごうてつ)〟を携持いたします」

銀花は不安気に見上げてくる貌に、ことさらに笑顔を作って言う。

「心配はいらない。
 殺生丸を連れてすぐに戻ってくる。
 邪見は他出しているようだから、りんは独りで留守番だが、出来るかな?」

「はいっ、りんはお利口にお留守番しております」

「うん、お腹が空いたら(くりや)の物をお食べ。
 それからぜったいに邸から出てはいけないよ」

「はいっ、銀花姉様」

間もなくして、銀花と蒼鉛はまだ暗い空へと飛び立って往った。
広縁に立って見送るりんの小さな胸の裡では、先程の不安はきれいに拭われていた。

銀花が往ってくれたのだからもう何も心配することはない。
総てが上手く行くと確信できた。
ある意味りんにとって、銀花は殺生丸以上に頼れる存在に思えた。
自分に何があっても殺生丸が助けに来てくれたように、きっと銀花は殺生丸に何かあったら必ず助けてくれるに違いない。
殺生丸ばかりではない、きっと誰のどんな窮地であっても銀花がその気になれば、救うことが出来るだろう。
銀花にはそれだけの力があることが、誰に教えられたわけでもないが、りんにはわかっていた。
だが、小さな胸にふと陰りが差す。
銀花が窮した時、誰が銀花を救ってくれるのだろう。
誰よりも力のある銀花の窮地を救えるものなどいるのだろうか。
力があるから強いとは限らないが、まだ幼いりんには難しいことは分からない。
が、一瞬、降りしきる冷たい雨の中に、儚く優しい微笑みを浮かべて独り佇む銀花の影像が視えた気がした。

「銀花姉様・・・」

 

邸から離れると、銀花と蒼鉛は一旦飛翔を止めた。
蒼鉛は人型では飛翔できないため、銀花に腕を取ってもらっていた。

「急ぎだ、蒼鉛」

「畏まりました」

応えるなり蒼鉛の衣が中に舞う。
まるで何かの表と裏をひっくりかえすような歪みが生じ、顕れたのは優美の極みの獣であった。
漆黒の艶やかな毛並み、鬣は僅かに蒼味を帯びていて、微風にそよと靡く。
馬よりも華奢で鹿よりも大きい体躯の背には、微妙に変化する五彩の模様がある。
額には、力の源である裡より真珠色に輝く一本の角が生えていた。
霊獣麒麟、なかでも稀なる〝黒麒麟〟こそが蒼鉛の本性であった。
銀花は鬣をひと撫ですると、その背にひらりと跨った。

「往くか」

「御意」

この世の何物よりも速く天翔ることが出来る麒麟は、主を背に燐光を帚星のように曳きながら一路西を目指した。

 



 

あの闇の穴に吸い込まれてからどれ位の時が経ったのだろう。
辺りは木賊(とくさ)色の濃密な靄に包まれていて、殺生丸の眼をもってしても一尺ほどしか見通すことが出来なかった。
(もや)は腐る寸前の果実のような厭わしくも甘美な臭いを漂わせて、息をするたびに肺深くに
侵淫(しんいん)し、躯と意識を麻痺させていくようだ。
腕は蔓状の物に搦め捕られていて自由が利かない。
跪いた足元は、液体とも固体ともつかない物が、ぶよぶよと波紋様に収縮している。
靄はここから立ち昇って来ているらしい。

殺生丸は、ともすれば手放しそうになる意識を保つために、己の掌に爪をきつくたてなければならなかった。
どうやら敵は、すぐに命を奪うつもりはないようだか、抜き差しならない情況であることに違いはない。
黒雲に為す術もなく捕らわれてしまった己の不甲斐なさに歯噛みし、膝を付くという屈辱的な姿勢をとらされていることに腹が煮える。
敵の姿が見えない今、必然的に怒りの矛先はこのような次第に至った元凶の輩に向いた。

「ふんっ〝あやつ〟はくたばったか」

呟いた殺生丸の言葉に、靄を通して声が応えた。

「それがわたしのことでしたら、生憎と(ながら)えております。
 ですが怪しい蔓の手枷と、この靄の瘴気で躯も頭も麻痺しかかっていますので〝元気に〟とまではまいりません」

「きさまの頭など、はなから麻痺しておろう。
 体力だけが取柄の鬼族なら、さっさとこの厭らしい蔓を引き千切るなり、なんなりしてみせろ!」

「ところがそう簡単ではないようです。
 がっちり絡みついて離してくれそうもありません。
 いやはや、こんな物にまで好かれてしまうとは、わたしの魅力も罪つくりな」

「・・・莫迦とは思っていたがここまでとはな」

「時に殺生丸、あなた何故あそこにいたのです?」

「偶然だ」

「偶然・・ですか。
 しかし、助けようとしてくれたのですから、一応お礼申し上げておきましょう」

「きさまのためではない」

「ということは、銀花のためですか。
 あっ、ひょっとして銀花がわたしを心配して、あなたを寄越したのですか?
 あああ、でしたら銀花に来て欲しかった」

「たわけ!姉上を巻き込むつもりか!」

「分かっています。
 こんな事になるなら来て欲しくはない。
 ですが、このままではいたずらに時が過ぎるだけ・・・
 明日、いえもう今日ですが、今宵は望月です。
 非常にまずい」

「ふん、そうとも言えぬがな。
 ともかくさっさと抜け出るぞ!」

 

「くくくく」

ふいに忍び嗤いが聞こえたと思うと、辺りを包んでいた靄が薄らぎ始め、声の主の姿が徐々に浮かんでくる。
靄がすっかり引いて、周りの情況がはっきりした。

殺生丸から二間ほど離れたところに、彩扶錏が捕らわれていた。
跪かされてはいなかったが、殺生丸と同じように両手を頭上に搦め捕られている。
先程の彩扶錏の言葉ではないが、確かに絡みつく蔓の数は殺生丸よりも多い。

声の主は、厭らしい嗤いを洩らしながら殺生丸と彩扶錏の姿を眺めている。
上背はあるが、肥り気味の躯に黒装束を纏い、(あおぐろ)い嫌な色の肌をしていた。
黄ばんだ眼球に、どろりと濁った腐臭さえしそうな瞳孔、そして左目のすぐ下から唇に架けて、肉の盛り上がった酷い傷跡がさらに醜悪さを増幅させている。
完全に靄が引いても、やはり辺りは木賊色の空間で、同じような黒装束の輩が数十名ほどもいた。

「さすがは〝鬼の長〟と〝犬の若君〟だ。
 靄瘴(あいしょう)をしたたかに吸ってもまだそれほどにしゃべれるとはな。
 だが、縛めを解かれたとしても躯はもう思うにまかせまい。
 蔓からじかに蠱惑汁を注入されてもいるのだからな」

麻痺しかかった感覚のため気付かなかったが、確かに蔓には微細な刺がびっしり生えていて、それが皮膚に突き刺さっていた。

「何者です!
 先日、葛城でわたしの臣下を襲ったのはきさま達か」

「さようでございますよ〝鬼の長〟」

その不逞の輩は慇懃に答えると、彩扶錏の周りをぐるりと一回りして不躾に見詰めながら、豪奢な金髪に口付けんばかりに近付いて囁く。

「由緒ある族柄に日ノ本一の権勢を誇る京の鬼族、その〝長〟であられる貴方様には、めったなことではお目通
 りも叶わぬそうだが、その高貴なる御方が、両手を縛められた虜囚のごとき有様とは、さぞや矜恃が傷つきましょ
 うなぁ」

「らちもない」

「ふふふ、〝鬼の長〟は色好みとのお噂を聞くが、この美しい貌と髪でどれほどの女を()かせて参られたのやら」

「つまらぬことをほざくために策を弄したのではあるまい、目的を言え!」

「冷たく美しい青い眸だ。
 わしは男でも女でも高慢なものを屈服させるのが好きなのだ。
 数多の女を欷かせた躯は、どのような佳き声で歔欷(すすりな)くのやら」

その言葉に、周囲の者は卑猥な嗤いを漏らす。
同調するように唇を捲りあげて嗤うと、腕を高く縛められているために袖が下がり露わになっている彩扶錏の二の腕を撫でさする。
そして、不埒にもさらに脇奥へと手淫らを進めようとした。

水蛆(すいしょう)〝鬼の長〟に手出し無用と言ったはずだ」

そう強く言い放ったのは、新たに現れた二人連れの年若く見える方だった。

「ああ、分かっている。
 ほんの手慰みだ、少しぐらい目をつぶれ、凌霄(りょうしょう)

「指一本触れることもならん!」

怒気を含んだ言葉に水蛆は鼻白む。

「おまえもいずれは嬲るつもりだろうが。
 そうでなくば蠱惑汁で傀儡にする意味がないものな」

「きさまには関係ないことだ」

水蛆の言葉に、凌霄は胸の裡で『下衆ども』と吐き捨てる。
だが、己のしようとしていることも、大差のない下劣なことだと分かっていた。
凌霄は『〝鬼の長〟を捕らえる』と、心に誓っていた。
だが、いざ捕らえてみると、これで良かったのかと自問してしまう。
まして、関係のないものまで巻き込んでしまった。
凌霄は美しい銀の虜囚に視線を移した。
水蛆の慰みものにされるのは見えている。
止めることは出来まい。
それはさすがに水蛆も譲らないだろう。

『所詮同じ穴の狢か』

凌霄は底無しに堕ちていく感がして、ぐらりと躯が傾いだ。

「大丈夫か?」

もう一人の年かさのほうが、すかさず支える。

「ああ、大丈夫だ心配ない、鷲峰(じゅうぼう)

あれの力を使った後は躯が(きし)んだ。
いずれは命を落とすことになるかもしれない。
だが、事を成就するためには不可欠な力だし、もう後戻りは出来ないと凌霄は思った。

凌霄の様子を窺っていた水蛆は微かに嗤っていた。
それに気付いた鷲峰は口唇を動かさずに息だけで耳打ちした。

『凌霄、やつらを使ったのは間違いでは・・・』

『分かっている、しかし、一族以外の手が必要だったのだ。
 妙な動きをしたら始末する』

凌霄は、水蛆に〝鬼の長〟を捕らえる手助けと、傀儡にしておくための蠱惑汁の提供の見返りとして、鬼族の本殿に〝闇の穴〟空間孔を繋げる約定を交わしていた。

水蛆たちは〝京〟と裏の都〝享〟の覇権強奪を目論んでいたのだ。
いかな鉄壁の要塞である〝鬼の本殿〟であっても、要の〝長〟を欠き、内部から直に襲撃されればひとたまりもないだろう。
裡を圧してしまえば、そこは鉄壁の要塞の本領発揮というものである。
念のために〝蛟〟との仲を絶っておこうとしたがそれは失敗に終わっている。
だが〝京〟の境界の警戒のために人員を割いた本殿はその分手薄になっていた。

「まあいい、〝鬼の長〟はおまえのものだ、凌霄。
 だが〝犬の若君〟殺生丸はわしの好きにさせてもらうぞ」

邪欲が殺生丸に向けられたことに彩扶錏は焦りを覚えた。
何とか殺生丸に危害が加えられるのを阻止しなくてはならない。
でなければ、目の前の敵よりも遥かに恐ろしい相手に、死ぬより辛い思いをさせられることが分かっていた。

「凌霄とやら、おまえが首謀者だな。
 どうやらわたしが目当てらしいが、ならば関係のない殺生丸は解き放て!」

「もう遅い。
 気の毒だが貌を見られたからには、事が済むまでここにいてもらう。
 だが、いずれ記憶を消した上で帰して差し上げる。
 それはあなたも同じですが、申し訳ないがその時には〝京〟と〝享〟はあなたのものではないでしょう」

「ならばそれでもよい。
 だが、殺生丸をあの水蛆の下卑た劣情に晒すな、欲望を満たしたいのならわたしが相手をしてやる」

水蛆は彩扶錏をちらりと振り向くと、意味深に嗤いながら殺生丸の前に立つ。
靄瘴によって脆くなっていた妖鎧を、腰に佩いていた錐刀の柄で打ち砕いた。

「長じてさらに美しくなられたな〝犬の若君〟
 その象牙の肌もさらに匂い立つばかりであろう」

殺生丸は水蛆の己を知っているかのような口振りも、淫猥な視線も無視した。
水蛆は僅かに鼻を鳴らすと、錐刀の先で殺生丸の単衣を切り裂いて、襦袢と指貫だけの姿にしてしまう。
けれど殺生丸は相変わらず顔色ひとつ変えない。
ただ、感情の欠如したような金の眸を水蛆にひたと据えているだけだった。

「ほう、若君にはずいぶんとお強くなられたようだ。
 それはそれで愉しみなことだがな。
 しかし、いずれその取り澄ました貌が、愉悦に悶え歪
 むことになる。
 此度はさしもの親父殿も、あの世からでは助けに来れ
 まいからな」

「何だと!」

父のことが口に上ったことに殺生丸の眸が揺らいだ。

「若君にはお忘れか、この貌を。
 もっとも、親父殿から受けた傷のせいで面変わりしてしまったがな。
 では、こう言えば思い出していただけるかな、
〝出雲の洞穴でのひと時は、まことに愉しゅうございましたな、媛若〟」

「きさまは・・・」

殺生丸の眸が驚愕に見開かれた。
その忌まわしい呼称と、それをつけた怨敵の貌は、忘れ去ろうとして心の奥底に押し込めていた記憶を、けれど決して忘れることの出来ない記憶をまざまざと蘇らせた。

 



 

琵琶の湖の上空に飛来した時には、辺りはまだ暗く、湖上に浮かんだ舞台の周りには、篝火に照らされた鬼の武者共がひしめいていた。
煌めく湖上に、そこだけ切り取って濃い墨を落としたような穴が見える。

「やはりか」

銀花は眉を顰めた。
鬼共の話す断片と風の匂いから、殺生丸と彩扶錏がその穴に吸い込まれたことが分かった。

「何ものかが、彩扶錏を捕らえ、それに殺も巻き込まれたのだな」

上空高くに留まりながら、己の騎乗している優美な獣に話し掛ける。

「蒼鉛、あれは〝蝕〟なのか?」

「あれは真の〝蝕〟とは申せません。
 が〝蝕〟を真似たもの、似たものであることは間違いございません」

「真似たと言うことは、あれを起こしたものは少なくとも〝蝕〟を見たことがあると言うことだな」

「それだけではありません。
 単に見真似ただけでなく〝蝕〟の本質を解ってもおりましょう。
〝蝕〟は時空を意図的に繋ぐ通路のようなものですが、あれは空間を繋いでおります」

「というと?」

「ある場所から、何ものにも邪魔されずに離れた場所へと、その通路を通って移動出来るのです。
 ぜいぜい二、三里でしょうが」

「それはやっかいだな。
 では、殺生丸と彩扶錏は既に違う場所に連れ去られていると言うことか」

「いえ、それならばあの穴は消えてしまっているはず。
 弟君達は今はまだあの中に捕らわれておられる」

「あの穴、どうやら閉じているようだな。
 鬼族がやっきになっているが開かぬと見える」

「〝蝕〟を起こせるものにしか無理でございましょう」

「なるほど、安全な隠れ家と言うわけでもあるのか」

銀花は無意識に、手触りの良い鬣と首を撫でていた。
蒼鉛はこのような時でなければ、心地の佳さに恍惚としてしまっていただろう。
危うく喉を鳴らしそうになるのを抑え込んだ。

「蒼鉛、おまえなら開けられるか?」

「出来ましょう」

「なら、開けて我を入れてくれ。
 あれが通路の出口なら、どこかに入口があるな、探し出せるか?」

「探します。
 ですが、踏み込むのはわたしが入口を探し出してからになさって下さい」

「何故だ?」

「わたしが入口を探し当てる前に敵が通路を抜け出でて、完全に〝蝕〟が閉じれば中にいたものは、永遠に時空
 の狭間を彷徨うことになります。
 そうなれば、わたしでも銀花様を捜し出せる可能性は百万分の一にも満たない」

「でも、可能性が無くはないのだろう。
 その時は我の代わりに殺と彩扶錏を何とか助けてやってほしい。
 それから我を捜してくれればよい。
 もし探し当てること叶わぬなら、おまえは元の世界に帰りなさい」

「銀花様・・・」

蒼鉛は気付いた。
銀花は焦っているのだ。
平静を装ってはいるが、いつになく焦っている。
入口を探り出してからなどという気も余裕もまったく無いようだ。

殺生丸と彩扶錏が共々に捕らわれるなどと、銀花は予期していなかった。
だが、殺生丸から話しを聞いた時〝蝕〟のようだと確かに銀花は思った。
〝蝕〟であれば殺生丸や彩扶錏にどれほど力があっても対処の仕様がないのだ。
銀花は、もう誰も失いたくはないし、己がいればと悔やみたくなかったのに、何故、己が動かなかったのかと自責する。

《すぐに助ける》

銀花の躯から研ぎ澄まされた妖気が迸出(ほうしゅつ)し始めた。

銀花と蒼鉛は舞台へ向けて降下した。
突然現れた姿と徒ならぬ妖気に、鬼共は武器を構え色めき立つが、見たこともない優美な獣と、それに騎乗する玲瓏たる姿から溢れる凄まじくはあるが清澄でもある妖気とに茫然自失となった。

騒めく鬼共を押しのけて、ひときわ背の高い美丈夫が進み出てきた。

「者共、得物を治めて控えよ!
 この御方は〝犬の媛君〟にあらせられる」

酒呑の言葉にさらに驚きと騒めきが拡がる。

「左将軍・酒呑童子殿か」

銀花は敬意を表してそう呼んだのだか、酒呑は苦笑して見せる。

「媛様、どうか〝酒呑〟とお呼びを」

今度は銀花が苦笑して見せた。

「弟君がお館様といっしょに、あの〝闇の穴〟に捕らわれましてございます」

「ああ、そのようだな」

「如何にしてもあの穴をこじ開けること適いませぬ」

「閉じたあれを開けることは麒麟にしか出来ぬのだ」

酒呑と並び歩を進める先に、件の穴に取り付き、銀花達が舞い降りてきた事にも頓着せず、一心にこじ開けようとしている姿があった。

「あれは?」

「左大臣、阿弖流為でございます」

「あれがそうか。
〝昼は人の台閣(だいかく)に、夜は閻魔庁に仕えた〟と云うが、今や鬼閣に仕えるか」

「何の事で?」

「いや、何でもない」

銀花はひらりと闇の穴近くに飛び移ると、剣に血を吸われ蒼白となりながらも必至にこじ開けようとしている阿弖流為の腕をそっと押さえた。

「人ならざる力を有し、幽界にも通じ、今や人ならざるものとなった躯であっても、それを開くことは出来ない
 (たかむら)殿」

はっとして阿弖流為は貌を上げて、添えられた腕の(ぬし)を見た。

「今、なんと」

「それは〝麒麟〟にしか開くことは出来ないと言ったのだ、阿弖流為殿」

阿弖流為は、凜として美しい姿よりも、まずその妖気に魅入られた。
そしてもうひとつの力に驚愕する。

『なるほど、〝小角〟殿や、齢経たものが恐れるはずだ』
他のものは、主を見失った動転から殊更抑えられた銀花のもうひとつの力に恐怖する暇もないようだったが、阿弖流為は気付かぬ訳にはいかなかった。
立ち込めた濃い雲間から、時折覗く深遠なる宇宙のように、惹きつけられもするが、同時にとてつもない恐怖も感じる。
『異形・・・』
これ以上は直視することは出来ないと眸を逸らす直前に、銀花の苦笑を捉えた。

「あっ、申し訳ございません。
 不躾な態度をお許しください」

「気にすることはない。
 阿弖流為殿のその眸なら、よく視えよう」

「媛様・・・」

「蒼鉛、開いてくれ」

銀花の求めに応じ、黒麒麟は優雅な動作でふわりと〝闇の穴〟の上に位置した。
額の真珠色の角がひときわ輝き出すと、やや蒼味がかった鬣がざわと立ち上がった。
すると、闇の色一色だった穴の真ん中辺りから、周りに拡がるように薄墨色に変わり、穴が開いた事が分かった。

鬼共が〝おお〟と感嘆とも畏怖ともつかない声を漏らす。
あれほど苦心惨憺してもびくともしなかった〝闇の穴〟を、黒麒麟はいとも容易く開いてみせたのだ。

「入口を探しに往ってくれ、蒼鉛」

「銀花様、どうかお気を付けて」

「おまえの方こそな」

蒼鉛は、暫し躊躇する素振りをみせたが、意を決したように舞い上がると北へ向けて駆けていった。

「阿弖流為殿、〝鬼哭の剣〟を借りて往く」

止める間もなく阿弖流為の手から〝鬼哭の剣〟を取った銀花に、周りのものは固唾を飲んだが、拒絶の雷も起こらず銀花は平然としている。
阿弖流為は納得する。
いかに〝鬼哭の剣〟の力が強くとも銀花の力とは比べるべくも無いのだ。
だが、銀花が一瞬、怪訝そうにしたのは見落としていた。

踏み込もうと身構えた銀花に、

「媛様、お供を」

と、阿弖流為と酒呑は同時に叫んだ。

「この中は時空が濁流のように渦巻いている。
 一歩踏み外せば二度と帰っては来られない。
 済まぬが、我では己の躯を御するのが精一杯なのだ」

「ですが媛様・・・」

食い下がろうとする酒呑を阿弖流為が制した。

「酒呑・・・」

阿弖流為の眸にある言葉を酒呑は読み取った。
『我らでは媛様の足手まといになる』
眸は、そうはっきりと云っていた。

「心配するな〝鬼の長〟は必ず連れ帰る!」

鬼共が一斉に平伏した。

「お頼み申し上げます」

居住いを正して銀花は応えた。

「しかとお引き受け申し上げる」

そして、阿弖流為と酒呑にだけ聞こえるように付け足した。

「だが、五体満足とまでは期待してくれるな」

銀花は悪戯そうに眸を煌めかせた後〝闇の穴〟に躯を投じた。

 

第十九話 供血 其の一 おわり