第九話 初 恋 

 

「酒呑、おまえは此処でわたしの帰りを待て」

「はっ、お待ち申し上げます」

「それと、日輪があの稜線に懸かっても、わたしが戻らなければ『火急の用件』だと言って蛟の館に迎えに来い。
 よいな」

酒呑は怪訝そうな貌で主に問うた。

「お館様、火急の用件とは」

「何でもよいのだ、館を辞する方便なのだから。
 そうだ『小角の爺が危篤』だとでも言えばよかろう」

「畏まりましてございます」

酒呑は、小角老が聞けば、さぞ気を悪くするだろうと思いながら返事をした。

「よいか酒呑、忘れるな。
 日輪が稜線に懸かったら、必ず迎えに来るのだぞ!」

そう言い置いて、彩扶錏は再び蛟の館へ向けて飛翔し始めた。
酒呑は主を見送りながら、今ひとつ解せない貌つきであった。
確かに蛟は美しい一族ではないが、主の厭い様が尋常ではない。
側近くに仕え、主の性情は心得ているつもりなので、姿形だけで厭うているとも思えない。
先頃帰還したという、執心の〝犬の媛〟に操を立てているとは尚更思えなかった。
なにせ派手に浮名を流して来た主である。
酒呑には、一族間の政治的取引などという小難しいことは分からない。
だが、先の時代に蛟族と交わされたという約定のことはうすうす知っている。

「近年は、他族とも犬族とも戦はない上、今の我らにはもう蛟の後ろ盾などいらぬが、蛟族を抑えておくのは利口な
 ことだ。
 なあに〝蛟の媛〟など、二、三度抱いてやれば、お館様の言いなりになろうものを。
 蛟も精力の強い一族だが、お館様が本気を出せば、足腰も立たぬほどになろうて」

と呵々と哄笑した。
後に酒呑は、己が如何に浅はかであったか、身を持って痛感することになるが、無論この時点ではそんなことを知るよしも無く、能天気にも、今宵、一夜を楽しむ相手の算段を始めていた。

「月の景の下、山科あたりの気の利いた遊女と戯れるのも一興ぞ」

そう言うと、自慢のねばり腰をくいくいとほぐすのだった。

 



 

蛟の館は大蛇嵓(だいじゃぐら)と呼ばれる大絶壁にあった。
雨の多いこの土地にあって、今日の空はすっきりとよく晴れていた。
新緑の眺めは素晴らしく、対尾根には〝中の滝〟の荘厳な高瀑(こうばく)が望める。
だが、暗鬱たる心地の彩扶錏の眸には、五月晴れの葛城山系の絶景も、見慣れた比叡の山ほどにも映らなかった。

妖しの邸の例にもれず、蛟の館もまた結界に守られ、外界からは窺うことは出来なかったが、流石に当代随一と目される〝鬼族の長〟ともなると、外殻の結界を通り抜け、門の在処を知ることが出来 た。
山深く、結界に守られているとはいえ、四足門には対の見張り番が置かれていた。

人間に恐れられているこの地に、人が来るのも珍しいが、その人影が、見えているはずのない此方へと、まっすぐやって来ることに驚いた門番は、近づく相手の姿に更に驚嘆した。
金色に輝く髪に、白磁の肌は山道を登って来たにしては、汗ひとつ浮かべていない。
眸は高い空の色を映したしたような青で、髪の色よりもやや深い金の睫が縁取っていた。
門番は生まれ出でてこのかた、これほど美しい貌を見たのは初めてだった。
そして同時に人ならざるものであることも見て取った。

「きさま、何者だ!ここが蛟の領地と知って踏み入ったか!」

門番は左右から挟むように、携えていた長槍を突き付ける。
だが相手は微塵も怯えはしなかった。
それどころか、槍を突き付けている門番のほうが、ほとんど及び腰になっていた。
小物である門番達には、彩扶錏の妖力を推し量ることは出来なかったが、己達とは桁違いなことだけは感じたようだ。

「媛に〝都の鬼〟が来たと伝えよ」

「鬼だと。
 きさまが鬼族だというのか?」

信じていないのか己が仕事に忠実なのか、なおも槍を構えたままに訝しげにしている。

「どちらかが、伝えに行けばよいことだ。
 さっさとしないか」

僅かに苛立ちを滲ませた声に、怒らせてはいけない相手だと悟り、年かさの門番がそそくさと奥へ走った。
残った方はまだ少年のようで、蛟族にしては珍しく整った顔立ちをしていた。
恐れながらも必死に槍を構えている。
けれど、彩扶錏のあまりの美しさに、威嚇というよりも見惚れているという様子であった。
あらぬ方を見ていた彩扶錏が貌を向けると、慌てて目を逸らしてしまう。

「小僧、正体の分からぬものと対峙している時は、決して目を外すな、殺られるぞ」

「あっ」

慌てて槍を構え直す。
その時、年若い門番が半妖であること、そして澄んだ翡翠色の眸であることに彩扶錏は気付いた。

「半妖か・・・
 おまえ、名は?」

少年は日頃から半妖と嘲りを受けていたが、その相手の言葉に何の嘲りも感じられなかったせいか、素直に応えていた。

「・・悔」

「〝かい〟どんな字を書く」

「・・後悔の悔の字と」

「誰が付けた」

少年はその問いに、一瞬辛そうに押し黙る。

「・・・俺は、この門の処に捨てられていたんだ。
 妖しの子を産んで、母親が厭い捨てたと、番頭様が言ってた。
 後悔から産まれたから〝悔〟なんだ」

「おまえには、蛟族ではなく〝()族〟の血が流れている」

蛇族は蛟族とは違い、美しいものの多い一族である。

「えっ?」

「どおりで、見目が違うはずだ。
 おまえ、悔という名は好きか」

その問いに首を横に振る。

「でもそう呼ばれて来たから・・・」

嫌いだけれど生まれてこの方そう呼ばれて来たから、馴染んでしまったということだろう。

「ならば、以降〝魁〟と名のれ」

彩扶錏は中空にその字を指でなぞってみせる。

「〝魁〟とは、北斗七星のひとつ〝魁星〟の魁だ。
 〝悔〟よりは、よかろう」

少年門番の貌がぱあっと明るく輝いた。

「はいっ」

風体を聞き、よもやと思いながら出てきた家令は、彩扶錏の姿を認め慌てふためいた。

「悔、きさま〝鬼の長〟を門前に待たし、こともあろうか、槍を突きつけるとは何としたことだ。
 半妖のおまえを拾って置いてやっている蛟族に仇なすつもりか。
 後に媛様から直々にきついお咎めがあると心得よ!」

彩扶錏に叩頭しながら、引きつった貌で門番の少年をなじる。
ことの責任をこの少年に全て被せるつもりなのだろう。
彩扶錏は幾重にも非礼を詫びる家令に、門番を咎めぬよう口添えをしてやる。

魁は、奥に通される彩扶錏の背に、家令に再び叱責されるのを承知で問うた。

「あの、どうして・・・」

振り返った彩扶錏は、真っ直ぐに少年の眸を見詰める。

「そうだな、おまえの翡翠の眸が気に入ったからだ。
〝魁〟には〝鬼〟の字も入っている。
 名に恥じぬよう振る舞え」

「はい、有り難う存じます」

家令達は事情が飲み込めず、怪訝そうにするも、彩扶錏に問いただすことも出来なかった。

彩扶錏が通された部屋は、絶壁の中空に大きく簀子縁が張り出していて、ここからも〝中の滝〟そして〝西の滝〟までもが望めた。
その滝音と、先程の少年の眸の翡翠色に、彩扶錏は幼き頃に銀花と小さな滝で遊んだ事を想い出していた。

あれはまだ銀花と彩扶錏が、初めて遇って間もない、初夏の頃であった。

 



 

和睦の正式な調印のため、犬族の本殿に出向く父に、無理を言って同行した。
以前、偶然遇った銀花に、もう一度逢いたかったからだが、調印の席に銀花がいるよしもなく、落胆しながらも父の後ろに控えて大人達の話合いを聞くともなしに聞いていた。

犬族・鬼族の強者達の居並ぶ中でもひときわ異彩を放ち、凛々しい姿に、息を飲むほどの強い妖力の持ち主、それが〝犬の長〟であった。
父の妖力は彩扶錏の知る限り最強で、尊敬もしていたが、幼心にも〝犬の長〟を目の当たりにして、これは違うと納得せざるを得なかった。

「御曹司、退屈なされたか?」

突然の呼びかけに驚いて顔を上げると〝犬の長〟の優しげな眼差しが向けられていた。

「いえ、そのようなことはございません」

暖かいとさえ見える眸の奥に、恐ろしいほどの覇気を感じる。
何もかも見透かされている心地がしたが、けっして不快ではなかった。

「おおそうだ、我が媛にお相手をさせましょう。
 なに、御曹司の器なら心配ない。
 あれには同じ年頃の遊び相手が居りません。
 仲良うしてやって下され。
 なにせ許嫁となったのですからな」

「許嫁?」

「何だおまえ、聞いていなかったのか?」

父が呆れたように振り返った。

「先の話し合いで決まっておったが、今日、正式におまえと〝犬の媛〟は婚約とあいなった。
 銀花媛はそれは美しく妖力もお強いそうな。
 そんなことでは、おまえが尻に敷かれるのは決まったようなものだな」

皆が盛大に笑い騒めいた。
他愛ない冗談が飛び交い、一見、楽しげな談笑の様子ではあるが、無論その下には、様々な思惑が渦巻いているのを彩扶錏は知っていた。
だが、今の彩扶錏にはどうでもいいことで、銀花が己の許婚となったことが素直に嬉しかった。

 

大人達の席を辞して案内された四阿(あずまや)は、広い庭の池の上に設えられていて、暑い最中にあっても涼しい風が渡っていた。
そこはとても居心地がよかったが、彩扶錏はそわそわと落ち着かない。
ほどなくして、髪をなびかせ、渡り廊下を駆けてくる銀花の姿が見えた。

「〝鬼の若君〟父上にお相手するよう申しつかったが、我と遊んでくれるのか?」

まっすぐ見詰めてくる眸は金に輝き、夏の強い日差しも跳ね返す。
零れる笑顔に彩扶錏の心が浮き立った。

「はい、銀花媛。
 よろしければお相手して下さい」

彩扶錏の言葉にさらに広がったその笑顔は愛らしく、胸の内にやさしい気持ちが湧き上がる。
それは彩扶錏の初恋だった。

「今日は暑い、水遊びに行こう。
 小さいが綺麗な滝があるのだ。
 我の秘密の場所だが〝鬼の若君〟になら教えてもよい」

「彩扶錏です、銀花媛」

「わかった、なら我は銀花と。
 行こう彩扶錏!」

彩扶錏の手を取り空へと舞い上がった。

「手を離すな、彩扶錏」

ひとりで飛翔出来ないと思ったのか、銀花はしっかりと手を握ってくる。
彩扶錏には、それが嬉しくて何も言わずにそのままにしておいた。
銀花は、彩扶錏が飛翔出来ることは知っていた。
だが、一緒に遊べる刻が惜しくて、速く飛ぶために彩扶錏の手を取ったのだった。
銀花より速く飛翔できるものは唯独り、父だけであった。

彩扶錏は己がかつてない速さで飛翔していることに気付いた。
景色が矢のように後ろへと流れていく。
けれど恐れはなかった。
誰かと手を繋ぎ、共に飛翔することがこれほど楽しいということを彩扶錏は初めて知った。
そしてそれは銀花も同じだった。

降り立ったそこは、銀花の言うとおりの場所だった。
森は深かったが、差し込む陽光が美しく、滝の飛沫が綺羅々と、いくつもの虹を織り成している。

「彩扶錏、大事ないか?
 少し急ぎ過ぎた・・・もっと気遣いをするべきだった」

「大丈夫ですよ。
 でも、銀花はとても速く飛翔できるのですね」

「う・・・ん。
 他に何か不都合はないか?
 我はちょっと力が強すぎて、周りに辛い思いをさせてしまうことがある。
 まだ、完全に力を制御出来ないのだ。
 彩扶錏には力があるから大丈夫だと、父上がおっしゃっていたが・・・」

「どこも何ともありません。
 むしろ傍に居ると楽しい気分になります」

「本当に?」

「はい」

「よかった。
 日々鍛錬しているのだが力の制御は存外難しい。
 だからまだ弟には逢えない」

「弟君がいらっしゃるのですか?」

「うん、殺生丸というのだ。
 逢えたら何でも教えてやるし、何だってしてやるつもりだ。
 危険からは我がこの躯にかえて守ってやるつもりなのだ」

「羨ましいです。
 わたしはひとり子なので」

「そうなのか」

「以前は兄弟のように育ったものがいたのですが、今は遠くに行ってしまいました」

「だったらこれからは我のところに遊びに来ればいい。
 我と彩扶錏は許婚となったと、父上が申されていた」

「はい、銀花もわたしのところへ来て下さい」

「うん、父上のお許しが出たら遊びに行く」

それからのひとときは本当に楽しかった。
水を掛け合ったり、魚を捕まえてみたり、木に手足を使って登ったりもした。
銀花は彩扶錏の知る同じ年頃の女の子達とは全く違っていた。
興味の先も、衣や飾りものよりも、剣術や刀といったものにあるらしかった。
それで彩扶錏は、脇に差していた小刀を見せた。

「見事な細工だな」

「昨年身罷った母の形見です」

「彩扶錏も母君を亡くしているのか」

銀花に手渡そうとした瞬間、小刀は彩扶錏の指を滑り水中に没した。
あっと思った瞬間には滝壺の底に沈んでしまった。

「底に微かだが見えている、おまえ泳げるか?」

「泳げますが・・・」

「なんなら我が取ってきてやる」

滝壺を覗き込んでいる銀花は今にも飛び込みそうだ。

「いけません。
 水が澄んでいて底が近く見えますが、かなりの深さがあります。
 それに、滝壺の底辺りは、たいてい渦があって危険です。
 後で家臣に取りに来させましょう」

そう言う彩扶錏に銀花は怪訝な貌を向けた。

「危険だと分かっていて何故家臣に行かせるのだ?
 彩扶錏の妖力は臣下のだれよりも強いと聞いた。
 それにあれは彩扶錏の大切な物なのだろう?」

「家臣は主のために働くものでしょう」

「時と場合によろう。
 泳げぬならいざしらず、落としたのはおまえだ。
 己の不始末は己でつけるのは道理。
 それとも次代の〝鬼の長〟はそんなことも出来ない意気地無しか」

今までこんなことを彩扶錏に向かって言ったものはいなかった。
何事も家臣が行うのが常で、それが当然だと思っていた。

「銀花のおっしゃるとおりです。
 わたしは考え違いをしておりました」

彩扶錏は次代の長。
かしずかれて育ってきたが、愚者でもなければ、己の非を認めるにもやぶさかではなかった。
言うやいなや彩扶錏は滝壺に飛び込んだ。
ほどなく水から上がってきた彩扶錏は、小刀を銀花に見せながら言った。

「始末をつけて参りました」

「おみごと。
 それでこそ鬼族の総領だ」

「それと、これを拾ってまいりました」

彩扶錏がもう一方の手を差し出した。
掌の上に鶏の卵くらいの大きさの翠の石が乗っていた。

「綺麗な石だな」

「これは翡翠です。
 こんなに大きくて濃い色の物は稀です」

「これが翡翠なのか。
 書物で読んだことはあるが見るのは初めてだ」

権勢を誇る犬族の媛なら、玉など見飽きているかと彩扶錏は思っていた。
その思いを読んだかのように銀花は少し恥ずかしそうに言った。

「我は先頃まで離れ邸から出たことがなかったのだ。
 だから、部屋の中では書物ばかり読んでいた。
 なにせ時間はたっぷりあったからな。
 そして今は、色々なことを実地に勉強中だ。
 見ると聞くとは大違いなのだな。
 この世は不思議に溢れていて、総てが目新しくて毎日が楽しい」

「そうなのですか。
 わたしは今までそんなふうに思ったことはありませんでした。
 ですが、言われてみれば面白いことも楽しいことも沢山ありますね」

この世には悲しいことや辛いこと、汚いことのほうが多いのを彩扶錏は知っていた。
〝鬼族の総領〟であるために、既に世の裏側を厭というほど覗いて来ていたのだ。
そのせいか、彩扶錏には、妙に冷めた老成したところがあり、時に大人達がどきりとするような真理を、さらりと言うことがあった。
だが今は、敢えてつまらぬことを銀花に言うつもりはなかった。
銀花はこの世に生まれたばかりの無垢な魂なのだ。
この媛の不思議な魅力はそれ故なのかもしれない。
だが、いずれ世の(あくた)にいやでも触れる時がくる。
その時に、銀花の魂は深く傷ついてしまうかもしれないと思う。
後に、銀花の生立ちから、既に傷ついた悲しい魂を抱えていたことを知るが、この時には

《ずっと素直な魂でいられるよう守ってあげたい》

そう、彩扶錏は願ったのだった。

「この翡翠で何か飾り物を造って、銀花に差し上げましょう。
 翡翠は持ち主に降りかかる災いを祓うと言います」

「そうなのか。
 我にくれるつもりなら・・・滝壺に戻してはくれぬか。
 これは滝の守り玉だったのかもしれないもの。
 我らが持ち去って滝が汚れてしまっては困るからな」

「銀花がそう望まれるのならば」

彩扶錏はそう言って翡翠を滝壺に戻した。
光を弾きながら沈んでいくのを彩扶錏と銀花は静かに見守った。

「ありがとう、彩扶錏。
 さあ、そろそろ邸に戻ろう。
 しかし、そのなりでは叱られるかな」

「どうでしょう」

彩扶錏が己のずぶ濡れの衣を見下ろした時、どぼんという水音がした。
銀花が水に飛び込んだのだった。
驚いた彩扶錏は、水から上がる銀花に手を貸してやりながら聞いた。

「どうしたのですか?」

銀花は盛大に水を滴らせながら、晴れ晴れとした笑顔で言った。

「だって、おまえだけ叱られては悪いもの」

 



 

あれからどれぐらい時が過ぎただろう。
翡翠玉はまだあの水底にあるだろうか。

遠い記憶に心を馳せていた彩扶錏を、現に引き戻したのはどこからともなく聞こえてきた侍女達の囁きだった。

お美しい・・・若長・・・お貌だけでなく・・・あの・・すべらかな肌・・
馨しい・・・また・・極みに達っせられ・・・艶やかなお貌・・喘ぎ声とて
・・再び・・・味わいた・・・今宵は・・・後でおひいさんにお願い・・・

何やら、閨での様子を話しているようだが、蛟の侍女共は少々はしたないことだと呆れた。
そして『若君』と聞こえたのを思い出した。

《まさか、わたしのことではあるまいな。
 あの時覗かれていたのか?まさかな・・・》

その時、見知った顔の侍女頭が次の間に通じる襖を開き、彩扶錏を招き入れた。
前を通り過ぎる時に、その侍女頭の眸に隠微な色がよぎったのを彩扶錏は見逃さなかった。
ぞくりと悪寒が走り、蛟の館を訪れたことを早々に、後悔し始めた。

『次代の〝鬼の長〟はそんなことも出来ない意気地無しか・・・』

銀花の言葉が蘇る。

《あなたに愛想尽かしされることを思えば何のこともない》

愛しい貌を想い出して、己を叱咤する彩扶錏であった。

 

第九話 初 恋 おわり