第十五話 哀しき声

 

京の都に巣くう鬼族の拠点は鞍馬山にあった。

〝本殿〟と呼ばれるそれは、おおまかには神社建築に近い様式で建てられているが、永い年月の間にその時々のものが取り入れられて、荘厳華麗ではあるが複雑に絡み合った装飾が創り出す陰は、建物自体を命在る物のようにも見せていた。

齢経た物、建物、樹木、岩などが妖力、霊力を持つのは、ままあることだ。
まして妖怪が巣くう建物であるのだから、それ自体が妖力を持ったとしても、何の不思議もない。
事実〝鬼の本殿〟は訪れるものを威圧し、そして鬼達を包み込み庇護していた。

楼門の前に降り立った酒呑は『ほう』と一つ安堵の息を吐く。
いつものことながら〝本殿〟に帰ってくると、母の懐に帰ってきたように、とたんに気が緩む。
だが、楼門のふたりの番兵のほうは酒呑の有様を見ると大慌てて駆け寄った。

「左将軍、これはいったいどうなされました!」

「すぐに典薬寮から迎えをこさせます」

一方が酒呑を支えると、もう一方が奥に知らせに往こうとする。

「騒ぐな、たいしたことはない。
 それより、お館様はお見えか?」

「いえ、本日はまだお見えではございません」

「そうか。
 すまんが肩を貸してくれ、太政官へ往く」

「なれど将軍、傷の手当をなされなければ」

「血止めは済んでいる。
 まず左府に報告を済ませてからだ」

鞍馬山の〝鬼の本殿〟は結界で覆われている。
むろん他の妖しの居城などもそうであるが、結界とは、その物を覆うバリアのようなものではなく、結界内を異層空間に移すということなのである。
結界が弱いと現層からしっかりと離脱出来ず進入を許してしまうが、現層から遠く離れればいいというわけではなかった。
現層により近く、隔壁は厚いというのが強い結界といえた。
妖しはその妖力の強さに比例して、より強く広く結界を張ることが出来るが、広大な土地をすっぽり結界で覆うことはほとんど不可能なことだった。
例外は蒼鉛の居た世界であるが、それすらも現層からは遠く簡単には行き来が出来ない。

なにをもって〝現層〟とするかはまた別の話である。
この日ノ本にあっては妖怪であっても基盤は現世である。
現世と自由に行き来でき、且つ他の進入を許さない鉄壁の広大な結界空間を手に入れることは、永劫の安住の地を手に入れることになる。
そして、それが可能なのが京という土地であった。

京という土地はそれ自体が霊的な力をもっている上、人間が神仙思想に則って築いた都が、さらなる霊力をため込み、京と同じだけの広さを持つ異層を既に間近に引き寄せていた。
その異層は何にも属さず、現世に近くそれでいて隔壁は厚いという理想の空間であった。
そして、今そこは〝享〟と呼ばれ、鬼族やその傘下の数多の妖しが住む世界となっていた。

京の都の闇には〝鬼〟が潜む。
碁盤の目のような町が造りだす四つ辻は、異層への出入り口なのだ。
鬼族が〝京〟と〝享〟を完全に統べるには、京の都の守りである四神の力を打ち破り、取り込む必要があった。
過去、数々の好機もあったが、その度に人間でありながら〝陰陽師〟と呼ばれる者の内に、強い霊力を持つ者が現れて〝京〟の持つ力と共鳴して〝鬼族〟の行く手を阻んだ。
当代になって〝鬼族〟は〝享〟のほうは完全に統べて、他の妖しは〝鬼族〟の許可無しには立ち入ることは出来なくなっていた。

だが〝当代の長〟である彩扶錏は〝京〟の制覇にはあまり熱心ではなかった。
あえて臣下の前では口には出さなかったが、表と裏の棲み分けこそが現世を、ひいては時空を混沌から守る要であると解っていたのだ。

近年は妖し同士の戦もなく〝京〟を狙っていた〝土蜘蛛〟どもも成りを潜めている。
先代の懸念であった〝犬族〟は大妖怪であった長を欠いて勢力を失っていた。

今、日ノ本で最も勢いがあるのが〝鬼族〟であった。
もともと妖しには〝鬼〟に類するものが多いが、京を拠点としてきた鬼族が〝京の鬼族〟と呼ばれ、その下に様々な鬼妖怪が集まっていた。
〝京の鬼族〟は妖力も強く美しいものが多かったが、その頂点である〝長〟の彩扶錏は歴代の内でも最も妖力が強くそして美しかった。
その噂を聞きつけてか、近年はとくに〝享〟に鬼族の庇護を求めて多くの妖しが集まって来ている。
また、妖力に自信のあるものは一族に加えてもらいたがった。
〝享〟は今や〝京の都〟以上の賑わいをみせる大都市になりつつあったのだ。

彩扶錏は〝享〟の空間を秩序を持って、整備することを何より優先しようとしていた。
そのために彩扶錏は、左大臣職に思慮深く政治的手腕に優れたものを据えた。
それが古い重臣達にも一目置かれる左大臣〝阿弖流為(あてるい)〟であった。

 

酒呑の報告を聞いた阿弖流為はしばし考え込んでいた。

「左府?」

「んっ ああ済まない。
 なにか今ひとつ解せないと思ってね」

「と、申しますと?」

「うん、酒呑を襲撃したやつらが何物であろうと、今の我らに勝てると思うほど愚かではあるまい。
 それは〝蛟〟の後ろ盾が無かったとしてもだ」

「〝土蜘蛛〟との戦に追い込んでおいて、隙に乗じて攻め入ってくるつもりだったのでは」

「まあ、その可能性が一番強いが、それでも我らを攻め落とせはしまい。
 もっとも、同時に〝土蜘蛛〟と〝蛟〟の両方と戦となれば話は別だが」

「そのために〝蛟の神木〟を狙ったのではございますまいか」

「そうだが、いくら〝神木〟を穢されたと言っても、直ちに〝蛟〟が戦を仕掛けてくることはまず無い」

「さようでございましょうか?
 わたしは〝蛟〟が〝黒装束〟とぐるなのではないかと疑っております。
〝蛟の媛〟のお館様へのご執心は相当なものです。
 お館様の妻になれぬなら、いっそ虜囚にして思いどうりにする算段ではありますまいか。
 あの媛なら画策しかねない。
 『鬼族を攻め落とした暁には〝享〟はくれてやるが、〝鬼の長〟は妾によこしゃ』
 と〝黒装束〟どもに言っているのが眼に浮かぶようですが」

「くっくくく、なかなかの想像力だ。
〝蛟〟と親しい酒呑が言うのだから信憑性があるな」

「親しいなどと冗談ではありません!
 お役目でしぶしぶ葛城に往っているだけです。
 けれど、疑いがあるのですから〝蛟〟との交流はしばらく様子を見たほうがよろしいのではないですか」

「ははは、本当はそれが言いたかったのではないのか?
 だが〝蛟〟は拘わってはいまい。
 どんな奸計があったとしても、それに〝神木〟を使うことはまず有り得ない。
 それほどに〝神木〟は〝蛟〟にとって大切なものなのだ」

「そうでございますか。
 しかし、わたしはまだ〝蛟〟が怪しいと思っております。
 わたしは貌に出ます故、以後使いは他のものにお願いいたします」

「だがなあ、今日のような事があれば尚更に他のものでは心許ない。
 酒呑でなければ命を落としていただろうに」

「わたしとて落としかけましたよ!
 媛がお助け下さらなければ」

「〝媛〟とは?」

酒呑はあっと口を押さえる。

「あー、危険ならば、使いには一箇小隊をお送り下さい」

「酒呑?
 媛とは誰だと訊いている」

この左大臣〝阿弖流為〟を誤魔化すことなど酒呑にはとうてい出来ない。

「実は危ういところを〝犬の媛〟にお助けいただいたのです。
 やつらが〝出雲の土蜘蛛〟でないのを見破ったのも媛様です」

そして、東寺まで送ってもらったことを打ち明けた。

「なぜ黙っていた?」

「媛様が黙っていろとおっしゃったので」

「ふーん、なるほど。
 で〝犬の媛〟とはどんなお方であった?」

「それはもう、凛々しく、お可愛らしい方で在られました」

「〝凛々しく〟〝可愛らしい〟?
 それはまた相反するたとえだな」

「はあ、ですがそうとしか表現が出来ません」

何を思い出しているのか、僅かに頬を上気させている酒呑を阿弖流為は面白そうに見る。

「ははぁ、さては酒呑〝犬の媛〟に心を奪われたか」

酒呑は一気に貌を朱に染めて弁解する。

「ちっ違います。
 唯もう一度お逢いしてお礼を申し上げたいと思っていただけです」

「ふふん、お館様と左将軍を虜にするとは、これは是非ともご尊顔を拝したいものだ」

「そのようなおっしゃりようは、媛に失礼でありましょう」

今度は貌を青くして怒っている。

「これはいかい失礼した。
 よほど魅力のあるお方だろうと思ったまでだ、気を悪くするな。
 さあ、お館様にはわたしが後で報告しておくから典薬寮で手当して躯を休めよ。
 失血しているのだからそのように赤くなったり青くなったりしていると倒れるぞ」

「はい、そうさせて頂きます」

酒呑を下がらせた後、阿弖流為は考え込んでいた。

「ともかく、三月後の〝血盟の祭祀〟が済むまでは、領境界の監視と警備の数を増やし強化せねばなるまい」

小さく独りごちて、つと眉を寄せる。
僅かに何かが引っ掛かった。

 



 

酒呑が彩扶錏に呼び出されたのは、戌の刻も半刻ほど過ぎた頃であった。

彩扶錏は執務室で書簡に目を通しているところだった。
鬼族は、全般に床の上での生活様式ではあるが、この本殿には椅子と机という唐様の設えの部屋も多く、彩扶錏の執務室にも大きな机と数脚の椅子が置いてあった。

彩扶錏は書簡から貌を上げないままに酒呑に目の前の椅子を勧める。

「今日は難儀であったそうだな。
 詳細は阿弖流為から聞いたが・・・少し待ってくれ、これを読んでしまうから」

「はい」

酒呑はかなり回復していた。
まだ無理は出来ないが深い傷も表面は塞がり始めていた。
それは強い妖力のなせるわざではあるが、常日頃の鍛錬の賜とも言えた。

一段落つけた彩扶錏がやっと貌を上げて酒呑を見た。
いたるところを包帯で巻かれた酒呑の姿に眉を顰める。

「躯は大丈夫なのか?
 聞いていたより酷そうだが」

肩の傷の包帯には、まだかなりの血が滲んでいるのを見て彩扶錏は言ったのだが、これは銀花が己の帯を裂いて包帯に巻いてくれたものを、手当の済んだ上にもう一度巻き直してもらったがために、血が滲んで見えるだけで、出血はすっかり止まっていた。
血に汚れた布を巻き直してくれと言った時、典薬寮の薬師は妙な貌をしたが、酒呑はその布を身につけていたかったのだ。
いずれ洗って刀の飾り紐にするつもりでいた。

「大事ございません」

「そうか、しかし暫くの間は葛城への使いは他のものに往かせよう。
 もっとも事のしだいがはっきりするまでは止めねばなるまいが、わたしとしてはこの期に中止してしまいたいのだがな」

古い重臣達の内には未だ〝蛟〟の後ろ盾を必要と考えるものも多かった。
彩扶錏は古くから仕えてくれているものにはそれなりに気を使っていたので、その意見を害にならない程度には聞き入れていた。

「ご配慮痛み入ります」

暫くは葛城の〝蛟〟の処へ往かなくて済む事になり、酒呑にとっては禍い転じて福となった。

「ところで酒呑〝土蜘蛛〟に化けていたのを見破るとは慧眼であったな」

「あの、実はそのことですが・・・」

どうやら阿弖流為は〝犬の媛〟のことは黙っていてくれたらしいが、やはり話しておこうと、口を開きかけた時、突然立ち上がった彩扶錏は机を回り酒呑の座っている目の前に立った。

「この包帯は銀花の帯ではないか!」

酒呑は仁王立つ主を見上げながら、
《このような布の切れ端を見ただけでよく解るものだ。
流石はお館様というか、恋する力のなせる技か》
と、妙なことに感心した。

「はっはい、実は危ういところを銀花媛にお助け頂きました。
 変相を見破った慧眼は媛様でございます」

ぴくりと片眉を欹てた主の貌は、常と変らず美姫も羨む美貌であったが、漂ってくる威圧感は怖ろしいばかりのものであった。

「なぜ早く言わない」

「あっあの・・・媛様がお館様にも聞かれるまで黙っているようにと・・・」

主の青く冷たい眼差しに酒呑の言葉尻は小さくなった。

「酒呑、きさまの主は誰なのだ?」

凍てつく眼光と対比する優しげな声音がいっそう怖ろしい。

「むっむろん、目の前におわしますお館様でございます!」

「それはよかった。
 いやなに、些か気になったものでな」

酒呑はうっすらと微笑む主のその貌ほど、怖いものを見たことがなかった。
我知らず襟元を緩める。
《息苦しい》

「もうそれ位になされませ、お館様」

執務室に入ってきた阿弖流為は、幾分笑いを含んでいる声で主を諫めた。

「酒呑とて悪気はないのでございますよ。
〝犬の媛〟がいずれお館様の后となられ、ひいては主となられると思ったればこそ、媛のお言葉どうりにしたまで
 でしょう」

「そうなのか。
 銀花がわたしの后となると思ってか」

「さようでございますよ。
 近い将来、お館様と媛様は必ず比翼連理の誓いを交わされましょう、そうだな酒呑」

阿弖流為は酒呑にだけ解るように目配せをした。

「はっはい、必ずや」

さらに阿弖流為はたたみかける。

「お館様と媛様が並ばれたご様子は、それは言葉に尽くせぬ美しさでございましょうなぁ」

「そうであるか?」

「きっと媛様はお館様のお世話を他人任せなどにせず、甲斐甲斐しくなされるのではございますまいか?
 お館様が『のどが渇いた』と申される前に、手ずからお茶をお持ちになる媛様が目に浮かぶようでございますよ」

歯の浮くような追従に、彩扶錏はまんざらでもなさそうである。

「そうだな、銀花はあれでなかなかに優しいから・・・むふふ」

何かを妄想して彩扶錏はやに下がっている。
酒呑はこれほどに惚けた主の貌を、かつて見たことがなかった。
恋とは、どんな男をも阿呆面にするらしい。
そして目に浮かんだのは、あたふたと〝媛〟に茶や何やかやを運ぶ主の姿であった。

「ああ、早くお館様と媛様の睦まじいお姿を見たいものでございます。
 媛様は月のように麗しいお方とか。
 お館様と媛様が並ばれたご様子は、太陽に月が寄り添うようで目が眩みましょう」

「さほどには待たせはせぬよ、ふふふ」

彩扶錏は上機嫌であるが、横で聞いている酒呑の心臓は喉から飛び出しそうだ。

《左府、それでは〝あり得ない例え〟でございますう》

有難いことに〝恋する男〟に揶揄は通じていないようである。
恋とは、どんな男をも間抜けにするようだ。

「それで酒呑、銀花に供は在ったか?」

「いえ、お独りで在られました」

このところ銀花は何時も蒼鉛を伴っていた。
ふたりきりで逢えることは少なく、何時も小面憎い殺生丸か、小賢しい蒼鉛が一緒なのだ。

「それは重畳。
 で、どこへ往くと言っていた?」

「近江に」

「近江?伊吹山には〝犬族の本殿〟があるが・・・」

「何やら、今まで往く決心がつかなかった処においでになると、申されておりました」

彩扶錏は庇の向こうの望月を見やった。

「長浜か・・・」

銀花は日ノ本に帰って来てから、己が不在の間に父が過ごした場所、道など総てを辿っていた。
そして、望月の夜は必ず父の血が染みこんだ砂浜で何時間も独りで佇んでいた。
だが、あの紅蓮の炎に焼け落ちた邸跡に立つことだけは出来ないでいるのを彩扶錏は知っていた。

「阿弖流為、後をたのむ」

彩扶錏はそう言うと、執務室から続く露台に出るやひらりと中空に舞い上がった。
慌てて阿弖流為と酒呑が露台に飛び出した時には、もう彩扶錏の姿はどこにもなかった。

「往ってしまわれたか」

「はい。
 なれど媛様が近江に向かわれたのは昼過ぎ、もうおいでにならないのでは」

「かもしれんな。
 だが、お館様には何か感ずるところがおありなのだろう」

「はぁ」

「恋するものには、他には見えざるものも視えるものなのだ」

「左府にはご経験がおありなので?」

酒呑の言葉に阿弖流為は苦笑気味に微笑む。

「先人の言葉さ」

月の景を貌に受けて立っている阿弖流為は、常の飄々とした姿はなりを潜め、辛い何かを乗り越えてきたような憂いを滲ませていた。
《やはり身を焦がすような恋いをなさったことがあるのだろう》
そう酒呑は思った。

「酒呑、媛に抱きかかえられたことがお館様にばれずに済んでよかったな」

「なっ、抱きかかえられたなどというわけではございません!」

「ふふふ、どちらにせよお館様に知れれば〝蛟〟への使いは生涯酒呑のお役目だ」

「うっ・・それよりも左府、あのようなお振る舞いはわたしのいない時にお願い致します」

「面白かったであろう?」

「面白いもなにも、いつお館様が左府の〝おからかい〟に気付かれるかと、生きた心地が致しませんでした」

「はははは、この期を逃してはお館様をからかう機会などめったに無いからな」

「まったく!
 なれど今朝のこともありますれば、お館様お独りで出掛けられては危険ではございませんか?」

「酒呑、愛しいお方に逢いに往かれるお館様に、おまえくっついて往くことが出来るか?」

「はは、ご遠慮したいです」

「であろう。
 お館様ほどのお力なれば大事にはなるまい。
 相手に弱みを握られたならば解らぬが、今のところお館様の弱みは〝犬の媛〟だけであろう。
 なれば心配ないな。
 媛様はお館様以上のお力を持っておられるのだろう?」

「言語に絶するようなお力を垣間見ましてございます」

「うむ、それにひょっとしたらあれは〝鬼族〟に対する襲撃ではなく、酒呑に対する襲撃であったかもしれんぞ。
 どごぞの女に恨まれたりはしておらぬか?」

「・・・・めっそうもない!
 そんなことはございません・・」

「山科の遊女〝夕霧太夫〟には、このところご無沙汰なのではないか?
 他からも憾み事を綴った文が届いているのではないのか?」

《・・・なぜそんなことまでご存じなのか》
酒呑はどきりとした。
阿弖流為は意地悪く嗤いながら、主がやり残していった仕事に取り掛かるため室内に戻った。
酒呑は書簡に目を通している阿弖流為を見やりながら
《この方を敵にまわすことだけは避けよう》
と改めて思った。

 



 

銀花は中空に留まりながら暗い影を落とす木々の向こう側を見据えていた。

あの森の向こうに父が炎に包まれた邸跡がある。
この長浜の地に降り立ったのは昼過ぎであったが、どうしても邸跡に踏み入ることが出来ずに無為に時を過ごしていた。
東の空に高く昇った望月を見上げ、誰にとも無く呟く。

「まったく、意気地のないことだな」

そして意を決したように暗く沈む森を飛び越えた。

そこは広く森が開けていることだけが僅かに建物があったことを偲ばせているが、それすら何も知らないものには只の空き地にしか見えなかったであろう。
炎に焼け落ち炭と化した柱も、高温に炙られて黒く変色した土すらも時の流れが覆い隠してしまっていた。

銀花はその空間の真中に立っていた。
どれほど耳を澄ませても、風の匂いを嗅いでみても何も感じることは出来ない。

銀花はあらゆる父の軌跡を辿っていたが、父の残留思念は殆ど残っていなかった。
ただ一カ所、あの砂浜には思いの外に強い思念が残っていたが、それは〝力〟の何たるかも解らないままに妄執する、殺生丸を案ずるものであった。

銀花がふと頭を巡らすと、月の光を反射して筋状に白く輝いている箇所がある。
近づいてみると、それは小さな流れであった。
流れの上を眸で辿ると、丈高く繁った草の間に数個の岩が覗いている。
どうやらその岩の間から清水が湧き出しているようだ。
在りし日にはこの湧き水を使い、庭の遣り水を造っていたのだろう。
澄んだ水底には白い玉石も見える。

銀花の左眸はまた別のものも捉えた。
それは玉石の間に半ば埋もれるようにして在った。
掌ぐらいの大きさで黒い炭状のものであったが、差し込む月光に所々が金色に光っていた。

拾い上げようと水に手を差し入れると、驚くほど冷たかった。
やはり何かが焼けて炭となったものであった。
几帳の横木の端かもしれない。
光っていたのは縁飾りの金細工であろうか、熱に溶かされ炭と化した横木の隙間に入り込んでいる。
冷たい水に守られて永い年月の間も形を留めていたのだろうが、水から引き上げられて空気に触れたとたんに、炭の部分はぼろぼろと崩れ落ちてしまった。
銀花の掌の上には金の部分だけが残った。
熱で溶けることで、意図せず細緻な透かしを創り出したそれは、月の光りを複雑に反射している。
銀花は、脆そうなそれを壊さぬようにそっと指でなぞってみる。

折しも月が欠け始めて金の反射が僅かに変った。
月蝕の始まりであった。

 



 

先程まで、鏡のような湖面に映し出されていた月影が揺らぎ始めている。
彩扶錏は瞬時に躯に力を込めた。
刹那、強い風が吹き抜けた。
伊吹山から吹き降りる〝伊吹おろし〟が水面を波立てる。
緩く結わえていた金の髪を巻き上げて、解けて風に舞う元結の先に彩扶錏の眸が捉えたものは、初虧(しょき)であった。

「月蝕が始まったか」

彩扶錏は金の睫を憂いに揺らせ、さらに速度を速めて飛翔した。

 



 

《反射が変った》
と、ひとつ瞬きをした時には、銀花の周りは朱色に染まっていた。

ごうごうと炎に包まれたそこは、どこかの邸内であるようだ。
怒りの化身のような炎は総てを舐めつくし、灰に変えようとしている。
目の前に立て掛けてある几帳にも炎が移り、横木の縁飾りの金細工に朱い炎が反射していた。

その几帳には炎の朱ではない赤い染みが付いている。
気が付けば業火の音に混じり赤子の泣き声がしていた。
それは几帳の陰から発せられているようだった。
回り込んでみると、そこには美しい人が褥の上で息絶えていた。
赤子はその懐で守られるようにして泣いているのだ。

銀花は〝はっと〟貌を上げる。
さらに強まる炎の音の中に懐かしく忘れられない声を聞き分けたからだ。

『十六夜! 十六夜!』

几帳を払いのけ現れた姿に眸を見開く。
もう二度と逢うことなどかなわぬと思っていた父の姿に、銀花の心は震えた。

「父上!」

銀花は叫んでいた。
そして何度も何度も呼びかける。
だが頭の隅には《無駄だ》と呟く己もいる。

これは幻。
金飾りが炎に溶かされ強い思念を取り込みながら凝ったのか、強い思念が金飾りに炎でもって想いの氷室を穿ったのか、時の狭間の悲しい幻影。

それでも銀花は呼びかけずにはいられなかった。

「父上、父上、銀花はここにおります」

炎の向こうで父は天生牙で、儚くなった人の命をつなぎ止めた。
息を吹き返したのに安堵して、優しく抱き起こし火鼠の衣を掛けてやる。
父の腕の中で頼もしげに見上げるその人に、銀花の鼓動はどくんと跳ねた。
愛しげに見詰め返す父の眸に鼓動が止まる。

ぎりぎりと胸の奥を締め付ける痛みにたじろぐ。
感じたことのない痛みにとまどう銀花の眸が捉えたのは、燃え盛る炎の中、幽鬼のように立つ男だった。
その男の思念は昏く深く哀しかった。

対峙した父は、叢雲牙を抜き放つ。

銀花の目の前で、紅蓮の炎の中、己の総てを賭けて愛しいものを守る父の渾身の獄龍破は総てを呑み込んでいった。

「父上・・ちちうえぇぇ・・」

波が引くように収縮していく様々な思念の渦のなか、優しい想いが一筋の光のように流れていく。

《十六夜、生きて生きて、生き延びてくれ! その犬夜叉と共に》

そして訪れた闇の中に銀花は独り茫然と立ち竦んでいた。
やがて、どこからか騒々しく不快な音が聞こえ始める。
それは耳からではなく皮膚を通して銀花の躯の裡から聞こえているのだ。

熱く切ない想いが重量を増しながら膨らみ、暗褐色を帯び始める。
そして更に大きく膨らみながら明確な形を取り始めた。
〝嫉妬〟という名の化け物が銀花の裡に産まれようとしていた。

銀花は今まで誰かを羨んだことはあった。
だが、誰かを妬んだことはなかった。
それが今、あの人が十六夜が妬ましかった。
銀花がどれほど切望しても得られなかった、父の暖かい腕の中にその人は包まれていた。
それがたまらなく妬ましかったのだ。

赤黒い感情が躯を支配していく。
抑え込もうとしても次々に沸き上がってくる昏い妄想に息が出来ない。
もしも今、目の前にその人がいたら、間違いなく引き裂いてしまうであろう鋭くなっていく己の爪を見下ろす。

いやすでに妄想の中では、思うさまその人を打ちすえて、爪で引き裂いてもいた。
感情のまま暴虐を尽くす、それは一種快感だとさえ言えた。
同時にそのあさましい己を激しく嫌悪する。
だが現実には、何処にも誰にも向ける事の出来ない憤懣は、荒々しく渦巻き、のたうち銀花を瘧のように震わせた。

何かが囁く、
〝その感情に躯を委ねてしまえ〟
〝向ける相手がいないのならば、いっそこの世を破滅させろ〟
〝この世を渾沌に巻き込んでしまえば、総てが混ざりあって己の醜さを直視せずに済む〟と。
それは甘美な誘いだった。
銀花の裡で凶暴なものが解放されたがっていた。

「なるほど、これが我に潜む〝禍つ力〟なのか・・・・・・いや違うな、この醜さこそが我なのだ」

今、己はあの昏く哀しい男と同じ眸をしているのだろうと思い、銀花は自虐的に嗤った。

「くっくくく・・・然もありなん、疎まれるわけだ」

銀花はこれ以上あさましい感情に囚われまいと、自我のより深い部分に逃げ込むが、そこには先程己が創り出した言霊の迷宮が待ち受けていた。

疎まれるわけだ・・・恐ろしい仔・・・
疎まれるわけだ・・・母を死においやった
疎まれるわけだ・・・醜い本性・・・
疎まれるわけだ・・・《仔をなしたのは間違いであった》

出口も安息もなく彷徨う暗闇に窒息しかける。

「たすけて・・・父上・・・嫌わないで・・・
 否定しないで・・・産まれたことを厭わないで・・・唯一度でいい、抱き締めて・・」

 



 

誰かが銀花の名を呼んでいる。
次第に大きくなる呼び声が闇の迷宮のさらに奥に沈み込もうとする銀花をかろうじて引き上げた。

「銀花・・・銀花!」

「・・・・」

「銀花、しっかりなさい。
 わたしを見るのです、わたしを見て」

「・・・彩扶錏、おまえなのか」

彩扶錏は、漠としていた銀花の眸が収斂し、現を映し出したことに安堵する。

「心配しましたよ! いくら呼びかけても返事をしてくれないから」

「・・・済まない」

そのまま黙り込んでしまった銀花を彩扶錏も黙って見守る。
月蝕のあいまいな景の中で、銀花の姿は今にも崩折れそうに儚く見えた。

 

「悲しい時は涕いてもかまわないのですよ」

彩扶錏は静かに囁く。

銀花は、彩扶錏の言葉に何か言おうとしたが、唇の替わりに握りしめていた掌を開いた。
掌から金の破片が砂粒のように零れ落ち始めると、銀花の眸からも一筋の涕が零れた。

金砂が総て零れ落ちてしまっても眸の涕は止まらない。
声も立てず、瞬きもせずに、ただ涕を零し続ける銀花の姿に、彩扶錏は胸が締め付けられ堪らず抱き寄せた。

「あなたは涕き方もご存じないのですね。
 何がそれほどあなたを悲しませるのです」

銀花は彩扶錏の胸の中で呟いた。

「・・・どこにもない・・我はどこにもいない・・・
 ・・・苦しくて堪らぬ」

押し殺したような囁きであったが、それはまさしく悲鳴であった。
彩扶錏は大切なものを守るように、銀花をさらに袖で囲い込む。

「悲しければ涕いてもかまわないと言いました。
 けれど、もう涕かないで下さい。
 わたしがいるから、愛しているから」

ふたりに降り注ぐ月景がまた僅かに変った。
月蝕は終わりを告げようとしていた。

今、あなたは目の前にいるわたしに縋ってくれているけれども、それは春の夜に見る夢のように、
儚いひとときにすぎないことを分かっています。
それでも、このひとときにわたしの想いを千にも万にも、幾重にも重ねてあなたを抱きしめましょう。

第十五話 哀しき声 おわり