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打ち寄せる波の音と、降り注ぐ望月の月景に佇む姿は、舞い落ちる雪片を除けば、あの忘れられぬ夜が、時の狭間をすり抜けて殺生丸の目の前で、再び繰り広げられているようであった。
微動だにしなかった姿が、己で己をかき
何かを堪えるように俯くと、終いには片膝を砂に付いてしまう。
すぐさま駆け寄ろうとした殺生丸は《よるな、殺》と言う戒めの声が掛るのを半ば予感していた。
常に幼い弟を守る立場にあった銀花は、誰に対しても弱味を見せるのを
だがしかし銀花の戒めは掛らなかった。
が、殺生丸は後数歩というところで足を止めた。
《・・・姉上・・・まさか気付いておられぬのか・・・》
常ならば先程まで殺生丸の立っていた場所であっても、銀花が匂いに気付かぬわけはない。
まして数歩のところまで近づいていることに気付かないのは、尋常成らざることであった。
《何があったのです・・・》
立ち竦む殺生丸に気付かないまま、銀花は地を蹴った。
殺生丸は遠ざかる姿を茫然と見送るしかなかった。
持てる力の最速で飛翔する銀花を追従することはもはや適わない。
《西の方向・・・》
殺生丸はその時、ちらと脳裏を掠めた思いを打ち消した。
黒麒麟が眉間の皺を深くして、哀しいような怒っているような貌つきで望月を見上げていた。
それは、銀花が月を見る姿と至極似ていると言えた。
「不機嫌な
姉上に置いて行かれたのが不満か」
銀花は、麒麟を喰い殺しその霊力を取込まんとする妖しから守るため、強い結界内に蒼鉛を留め置いていた。
だが、主と居られぬことを哀しむ蒼鉛の心を汲んで『これからはなるべく連れよう』と約束していた。
殺生丸の言葉に振り返った蒼鉛は、弱い感情を読まれまいと、ひとつ息を吐くと、慎重に抑制を効かせて声を発した。
「最近はどちらにでもお連れ下さいます。
ですが、望月の夜は〝特別〟です。
父君の事を想い出しておいでなのです。
それは殺生丸殿もよくご存じでしょう。
ですから以前はあの浜辺で独り過ごされていた」
蒼鉛の微妙な言い草が殺生丸は僅かに引っかかった。
「その砂浜で姉上を見かけた。
が、どちらかに行ってしまわれた。
おまえは姉上に何があったか、何処に行かれたか知っているのか」
「・・・あれは近江に行くと出掛けられた頃からです。
望月の夜、月が昇り始めると様子がおかしくなられる。
何があったかは存じません。
ですが何かに苦しんでおられるのは確かです」
「近江・・・長浜か」
「長浜とは・・」
「父上の葬された場所だ。
姉上は望月の夜毎にあそこへ行っておられるのか」
「そうとは思えません。
銀花様のご様子は尋常でない。
それが、夜が明けて戻られた時には、何時もの銀花様です」
「長浜の地で心を鎮められておられるのだろう」
「殺生丸殿、本気でそう思っておられるのではありますまい。
むしろ、長浜で何かがあってそれに心を乱されておられると考えるべきでしょう。
そして平らかになるための〝何か〝あるいは〝誰か〟を求めて出掛けられるのではありませんか」
「なんだと・・・」
「気になりますか、なら、何故追われませんでした?」
「・・・・」
「わたしは〝待て〟と言う主の命に背くことは出来ない。
でも、あなたは違う。
たとえ見失っても殺生丸殿、あなたなら追うことが出来たでしょう。
銀花様は今宵、己の軌跡を消すことにも思い及んでいないはずです」
「・・・・」
「それとも、追いかけた先で〝邪が出るか鬼が出るか〟事の次第を確かめるのに
「・・・おまえはまったく喰えぬやつだな。
そこまで分かっているのなら何故己で何とかしない?」
「わたしでは・・・だめなのです。
・・・銀花様はわたしの傍では眠らない」
《ふん、よく分かっている》
殺生丸は眸を眇めた。
幼き頃、毎夜のように銀花に添い寝してもらったが、何時殺生丸が眸を開いても銀花は目覚めていた。
まったく眠らないわけではないが、安全なはずの邸内であっても、直ぐに臨戦態勢を取れるように浅い眠りに止めていたのだ。
大切なものを守るためには深く眠ることは出来ない。
それを殺生丸が知ったのは非力な人間の幼子を養うようになってからだった。
反対に傍らで眠ることの出来る相手とは、信頼に値するだけでなく、力も認めているという事でもある。
銀花は先日、殺生丸の膝枕で眠った。
それは取りも直さず殺生丸は銀花の〝守るべきもの〟の第一順位ではなくなったが、己と大切なものを委ねるに足ると認められた事でもあった。
「問題は、銀花様が〝何を〟もしくは〝誰〟を
その場その場は
今この世でそれが出来るとすれば、それは殺生丸殿、あなただけなのではないですか」
蒼鉛の眸は銀花を気遣う想いと苛立ちで揺らめいている。
麒麟とは誇り高い霊獣だという。
孤高不恭の者で主以外には決して膝を折らない。
誰よりも主を想い、魂を分かつ半身でありながら、他者に主の苦悩を取り除いてほしいと請う事は、それが主と血を分けた弟の殺生丸であっても歯がみするほど悔しいことだろう。
《この世》《出来るとすれば》という言い方をして、言外に銀花を救える真実の相手は、殺生丸ではないとしたのは蒼鉛のささやかな抵抗なのだ。
「おまえに言われずとも、姉上の事はわたしが一番分かっている、わたしがお救いする」
「でしたら、早急にお願いいたします。
あれほど辛そうな銀花様を見るのは初めてです」
「あれほどでなくとも、辛そうな姉上を見たことがあるような言い草だな」
「お忘れですか、わたしは銀花様の半身です。
心配を掛けまいと、弟君にはおっしゃらずとも、わたしにはおっしゃることもある」
蒼鉛の言葉は殺生丸の気を
「此度、姉上はその半身とやらに、心を平らかにする助けを求めなかったようだな」
断ち切るように言い去る殺生丸を見送りながら、蒼鉛は銀花と彼の広漠な荒れ地〝黄海〟を旅した日々を思い出していた。
時折、蒼鉛を透して遠く残してきた弟を思う銀花の眸が切なくて、蒼鉛はまだ逢ったこともない頃から殺生丸のことが好きではなかった。
銀花が真に
しかし、
日ノ本に来て気付いたが、銀花を、いやその力を惧れる妖しは多い。
だが反面、強く惹きつけられるものも多いのだった。
それは力が強いものほど顕著なのだ。
そして銀花は情も深く、まして己を慕うものには寛容だ。
有り体に言えば八方美人の気味があるということだが、銀花が情をかけるすべての相手に妬心が湧くわけではない。
蒼鉛の防衛本能のようなものが働く相手がいるのだ。
そして今、そのひとりが銀花を振り向かせてしまうかもしれないと、防衛本能が警笛を鳴らし始めていた。
《わたしは主を心配するふりをして、その実、己の在処の心配をしている・・・
まったく、仁の獣が聞いて呆れる・・・・》
深い吐息が形の良い唇から零れ落ちた。
銀花の邸の湯殿は、不二の山の地脈と繋がる温泉を引き込んである。
さほど広くはないが御影石で設えられた空間は居心地好く、開け放たれた一方から広く空を望むことも出来る。
暮れ始めた空には十六夜月が低く浮かんでいた。
その形は十四夜月と似てはいても、欠け往く月の儚さを滲ませている。
外気が湯から出ている部分を適度に冷やしてくれるので、つい長湯をしてしまった殺生丸は、湯船に躯を伸ばし見るとも無しに月に眸を向けながら、昨夜のことを思い出していた。
昨夜、蒼鉛と別れてから、気付けばやはり西国に向けて飛翔していた。
琵琶の湖の上空に掛った時、湖面に浮かぶ舞台が眸に入った。
岸辺から細い径路が舞台へと続いている。
径路には所々に篝火が焚かれていたが、なにものの気配も無かった。
無論これらの舞台や径路は人間の眼では捉えることは出来ないものだ。
唯、篝火の炎が揺らめくのをぼんやりと視ることが出来、それは周辺に住む人間たちから〝鬼火〟と呼ばれ、永年に渡り恐れられてきた。
毎年この時期、湖面に〝鬼火〟が揺らぎ始めると、近隣の人間たちは次の望月の夜が終わるまで夕刻からは湖に近づかなかった。
殺生丸は径路に降り立つと舞台の方を見やった。
「〝鬼包丁〟の
京の鬼族には代々伝わる妖剣がある。
古の昔、鬼の祖は力を得んがために闇の魔と契約を交わした。
魔は剣に隠形しその力を貸す見返りに、一年に百の鬼の血を生け贄に要求した。
贄に饗される鬼の哭き声から何時しかその剣は〝鬼哭の剣〟と呼ばれるようになったが、他の妖し達は、鬼族が同胞を贄にしてまで得た力から、その剣を侮蔑を込めて〝鬼包丁〟と
今日では百鬼の生け贄は無くなったが、替わりに〝鬼族の長〟もしくは〝嫡男〟が、その妖力を二晩に分けて捧げる。
それが〝血盟の祭祀〟における最も重要な儀式〝供血〟である。
〝血盟の祭祀〟最終日の前日、十四夜の逢魔が時に湖面の舞台に立った〝鬼の長〟の姿は、剣と共にかき消えて真夜中過ぎに再び顕れる。
翌、十五夜も同様であるが、その間のことは一切を覚えていない上、妖力は極端に弱まり〝供血〟が終わった後、場合によっては回復するまでに数日寝込むようなこともあった。
当代の長である彩扶錏は、先代が存命のころから父に代わり〝供血〟を行っていた。
初めの頃こそぐったりと寝込みもしたが、歴代の内でも並外れた妖力を備えていたので、今ではほとんど数刻で力は戻る。
けれども記憶のない空白の時が心許なく、妖力が弱まった躯の感覚が不快なので、彩扶錏は〝供血〟の儀式が嫌いだった。
殺生丸は湖面に浮かぶ径路に立ちながら、比叡山を見上げる。
銀花の軌跡は薄らいできていた。
けれども殺生丸には確かに真っ直ぐ山頂に続いている軌跡が視えた。
どれ位そこでぼんやりとしていただろう、どこかで明けの鴉が鳴いた後、比叡山から飛翔する銀花の姿が見えた。
気配は消されているが、速度を増すまでの一瞬に見間違える筈のない姿を殺生丸の眸は捉えたのだった。
「姉上・・・」
殺生丸は気持ちが昏く沈む。
予想はしていたが、実際に銀花が比叡山で夜を過ごしていたのを見ると、つまらぬ想像が現実味を帯びる。
その時、舞台の横の湖面に黒い穴が広がり始め、その中から雑魚妖怪が数十匹飛び出してきた。
妖怪共は径路に立っていた殺生丸に驚いた様子だったが、すぐさま攻撃を仕掛けて来た。
だが仲間が次々にやられると踵を返して逃げ始めた。
常ならばそのまま捨て置いただろうが、やつらにとって運の悪いことに殺生丸は機嫌が悪かった。
そして必要以上に爪の洗礼を受けた死骸が転がる舞台や径路は、惨憺たる有様となった。
殺生丸が飛び去った後、再び湖面に顕れた穴が死骸を一掃していく。
そして穴の中から密かな話し声が漏れていた。
《気取られたか?》
《いや、大事なかろう、あれは鬼族ではない》
《慎重を期さねばならぬ、この期を逃すわけにはいかないのだ》
《案ずるな。
あれは犬の嫡男だ、鬼族に注進することはない。
それにしても長じてますます美しくなったことだ。
これは思わぬ愉しみとなるかもしれぬな》
《わかっているだろうが、我らに協力し従うことが約定のはず》
《ああ、わかっている。
だが、期せずして掛った獲物なら文句もあるまい》
殺生丸は東国に戻る途中でも、出くわした妖しをことごとく血祭りにあげた。
無論、返り血を浴びるようなへまはしなかったが、気が付けば全身に怨嗟と血の臭いをべっとりと纏わりつかせていて、夕刻になって銀花の邸に戻った時には、湯殿に直行しなければならなかった。
別段、蒼鉛を気遣っての事ではないが、己でもさすがにその臭いに
滾滾と湧き出る温泉は、躯の疲れも汚濁も総て洗い流してくれた。
大きく伸びをするようにして湯船の縁に凭れ、首を逸らすようにして眼を閉じていた殺生丸は、鎖骨辺りを撫でる感触に驚いて躯を起こした。
目の前には銀花が湯着姿で立っていた。
「あっ姉上、すぐ出ます!」
慌てて立ち上がろうとする殺生丸の肩を押さえて制する。
「かまわない、一緒に入ろう」
「ですが・・・」
「なんだ、以前はよく一緒に入って、洗ってやったではないか」
「それは幼き頃のことですので」
「久しぶりと思ったのだが、まあいい、好きにするがよい」
殺生丸は諦めたように小さく吐息をつくと、そのまま湯殿に留まった。
《まあいい》と言いながら、殺生丸が出て行ったなら、きっと銀花は不機嫌になる。
とどのつまり、言葉にされなくとも銀花の意向に逆らうことなど出来はしないのだ。
湯着が透けて銀花の躯の線が露わになるのを、なるべく見ないようにする。
うっかり見てしまうと視線が離せなくなりそうだった。
「姉上、わたしは幼き頃には封印の入れ墨に気付きませんでしたが・・」
「ああ、おまえを怖がらせてはいけないので、湯に入る時には見えなくしていた」
「怖がるなど・・・」
「それに同じように入れ墨をすると、だだを捏ねられてもかなわんのでな」
「はっ?」
「おまえは何でも我と同じにしたがったのだもの。
頬と額の妖線が違うと言って、涕いたのを憶えていないか?」
「憶えておりません」
「ふーん」
「・・・姉上、近頃お躯の具合がお悪いのですか?」
「うん? いや別にそんなことはない」
「ですが昨夜、浜辺で苦しそうになさっているのをお見かけいたしました」
「・・・父上を・・想い出していただけだ」
「しかし以前とは違いましょう?」
「心配はいらぬ」
「・・・昨夜、あれからどちらにいらせられた?」
「聞かずとも知っていよう。
今朝方琵琶の湖におまえの気配があったな」
銀花は気付いていたのだ。
かなりの距離があっても平常の銀花であれば気付くのが当然。
「・・・望月の夜ごと比叡山にお通いなのですか」
「まあな」
「何がおありだったのです。
比叡山に行けば辛そうになさっていたのが戻るのですか?
わたしではお力になれませぬか!」
「本当に心配せずともよい。
少し血が冷えるだけだ、それも直ぐに戻る」
「では熱を取り戻すために・・・」
「そうだ」
妖しの血、肉体、精などは、他に力を与える糧にもなる。
殺生丸は、銀花が比叡山で〝血の冷え〟を取り戻すため、何をしているのかをはっきりと思い知った。
だが本当のところは銀花は彩扶錏から糧を得ているわけではなかった。
誰にも抱き締められることなく育った銀花を、冷えた躯を熱く強く抱き締めその存在を確かめさせてくれる、闇に堕ちてしまわないようつなぎ止めてくれる腕が必要なのだった。
「あやつがお好きか」
「好きかと問われれば好きだと答えようが、そういう事ではないのだ。
そんな艶めいたことではない」
「それでもあやつの元にお通いになる、あやつと肌を合わせられる」
殺生丸はそんな言い方をするつもりはなかったのだが、どうしても声が尖ってしまった。
「独りでは熱を取り戻せない、彩扶錏の助けが必要なのだ」
銀花が誰かの助けが必要だと言うこと事態、よほどのことであるのが分かる。
しかし口をついて出たのはさらに非難めかしい言葉だった。
「そのためだけに、あやつと夜を伴になさるのか。
けれどその為されようは、あやつを
「彩扶錏には済まないと思っている。
言い訳にしか聞こえぬかもしれぬが、我は今、自滅するわけにはいかない」
「気にすることはありますまい。
あやつは淫乱にそれを愉しんでいるに違いない」
「殺生丸、言葉が過ぎよう」
「・・・お庇いになるか」
めったに無いことだが、銀花が〝殺生丸〟と呼ぶ時はかなり怒っているという証であった。
過去に二、三度、銀花を怒らせたことがある。
それはみな殺生丸を心配してのことであったが、此度は違った。
「彩扶錏には卑しい心根などない。
淫乱というなら我こそがそうなのだろう。
どんな理由にせよ、彩扶錏を弄んでいることに他ならない」
「何故あやつなのです?」
「・・・長浜で父上の幻を視た。
混乱した我は己を見失いそうになった。
その時、彩扶錏が我を正気に引き戻してくれたのだ」
「ならば、たまたまその場にいたのがあやつだっただけなのですか。
あやつでなくとも良かったのですね」
「そう・・かもしれない」
「幼き頃は何時も姉上に守っていただいた。
いろいろなことを教えて下さったのも姉上だ。
ですから今度はわたしが姉上のお力になりたいのです、誰でもないこの殺生丸がです。
姉上のことが心配なのです。
わたしは姉上が・・・」
「あの幼かった弟がいつの間にかこんなに大きくなって、我を心配してくれているのだな」
「今でも姉上の助けになれない己が情けない。
それどころか姉上を傷つけるようなことを口にしてしまった。
姉上が頼って下さらないのも無理はない」
「そんなことはない」
「慰めて下さらなくとも結構です」
「本当に今も昔も殺は我を救ってくれている。
我が結界内で独り育ったことはもう知っていよう。
孤独を孤独とも感じぬ暮らしから、踏み出でた世界はすばらしく、綺羅々と輝いていた。
だが、気付けば我を見る眸は畏怖に縁取られていた。
結界内にいた時から感じていたことだが、封印を施されて尚、我は周囲に恐怖を与える。
そして初めて真の孤独というものを思い知った」
「あの頃、わたしはまだ幼く、皆が姉上に気後れしているとしか分かりませんでしたが、それでも腹立たしかった」
「しかたがないことだ。
立場が変われば我とて同じであろう。
皆、好きで我に怯えるわけではないのだ。
それでも殺に初めて逢った時、祈るような気持ちだった。
『怯えさせるに違いないが、嫌われたくない、嫌われたらどうしよう』と。
だが、おまえは違ったのだよ。
真っすぐに我を見詰め返して、零れる笑顔で差し出した手を取ってくれた。
それがどれほど嬉しかったか、どれほど救われたか、きっと殺にも分かるまい」
殺生丸は銀花の言葉と眼差しに頬が染まり、とてつもなく締まらない貌つきになるのを、
銀花の言葉に一喜一憂する己が情けなくもあったが、縋るような恨みめかしい言葉が口を付くのを止められない。
「あやつも・・・あやつも姉上を惧れなかったのでしょう。
それに、わたしに逢うより先にお逢いになった」
「ああ、だが殺とは違う。
我と初めて逢った時、既に彩扶錏の妖力は父上がお認めになるほどのものであった。
故に我を惧れなかったのだろう。
まだ、力が目覚めてもおらぬような幼子のおまえが我を受け入れてくれたのとは違う。
殺と過ごしたあの日々こそ我の生涯において最高の時であったのだ」
「けれど結局姉上のお力になれない。
これからもあやつの元に通われるのか」
「いや、多分大丈夫だろう。
我はひとつことに捕らわれすぎていて、大切なものを見失っていたようだ。
初めから無いものを嘆いて、我を心配してくれるものを置き去りにするところだった」
「姉上・・・」
「もう、凍えることもないだろう。
きっと踏み留まれる、止まってみせる」
銀花の言葉は、何かを吹っ切れたと言うより、無理矢理にも断ち切ったように聞こえた。
銀花が掌で殺生丸の頬を撫でそのまま鬢の髪を後へ梳く。
それは昔、優しい微笑みと共に銀花がよくしてくれた仕草で、幼かった殺生丸はそうされると心地よくて、とても嬉しいのだけれども、同時に何故か切なかった。
あの頃と同じ心地よさと切なさ。
そして幼い時には分からなかった〝何故〟が分かってしまう。
美しすぎる夕焼けを見ていると切なくなるように、愛しすぎると哀しくなるように、何時かきっと失ってしまうのではないかと心が震えるからだ。
美しく奔放で凄まじい力を持つこの姉は、同時にとても儚いようで殺生丸を不安にさせる。
「知らぬ間に大人になったものだな。
もうりっぱに一族を率いていけるだろう。
我は嬉しく誇らしい。
けれど、あまり早く追い越していってくれるな、寂しいからな」
「本当にもう比叡へ行かずとも大丈夫なのですか」
「ああ多分な。
もしだめなら、もう大人になったことだし、今度はおまえが何とかしてくれるだろう」
笑いながら言い置いて、湯殿を出て行った銀花の言葉を、幾度も反芻していた殺生丸は当然のことながら酷い湯あたりに陥った。