第七話 月やあらぬ

 

冷たく光る金色の眸。
常ならば、何ものも寄せ付けない硬質に(かが)よう眸が、今は気遣わしげに揺らいでいる。
見つめる先にあるのは、望月を仰いで佇む姿。
それは今しも月景にとけていってしまいそうで、馴染のない〝不安〟の二文字が胸に浮かぶ。

殺生丸を不安にさせるものは現世(うつしょ)にあっては唯ひとつ。
そしてその姿は、抗いがたい睡魔に引込まれるように、遥か昔の雪の浜辺に立つ姿を想い起こさせた。
だが想いの流れに囚われる刹那、視界の端に映った影が、殺生丸を引き留めた。

己と同じように、佇む姿を見詰めているのは、蒼味がかった黒髪の青年である。
殺生丸よりも長身であるが、不思議に重さを感じさせないその姿の本姓は、霊力甚大なる霊獣麒麟。
蒼鉛という(あざな)は髪と眸の色から名づけられたのだろう。
それは月の(ひかり)を受けて、いっそう蒼が際立っていた。

「姉上は少しお変わりになられた」

誰にともなしの殺生丸の言葉に、蒼鉛は問い返した。

「父君がお亡くなりになった夜も、このような望月でございましたか?」

「・・・そうだ」

「わたしの世界では、この日ノ本は〝蓬莱(ほうらい)〟と呼ばれておりました。
 そこに『蓬莱の大妖が沈んだ』と噂が流れて参りました。
 ですが、そのひと月ほど前に、銀花様にはお分りになったようです」

「どういうことだ」

「突然こうおっしゃいました・・・『父上が逝ってしまわれた、せの血が冷えた』と」

「『せの血が冷えた』とは?」

蒼鉛は悲しげに首を振った。

「あの時から、銀花様は何かを諦めてしまわれたようです」

蒼鉛の言葉に殺生丸は月を仰いだ。
《父上、貴方は姉上の心にも大きな跡を残して逝かれたのか》

「父君とは、どのような方で在らせられたのでしょう。
 わたしは親というものを持ちません。
 ですから銀花様をどのようにお慰めしてよいか分からないのです」

殺生丸が答えを逡巡していると、月を仰いでいた銀花が飛翔し始めた。
蒼鉛はあわててその姿を追おうとした。

「追うな、蒼鉛」

蒼鉛は殺生丸の言葉に、物言いた気にした。
が、主が消えた夜空を見詰めるだけで、それ以上は追おうとはしなかった。

「邸内に戻れ。
 おまえの匂いに引かれて雑魚妖怪どもが寄って来るぞ。
 おまえを助けるなど、真っ平だからな」

麒麟を喰らい、その霊力を取り込まんとして、襲ってくる妖しが思いの外に多く、銀花は打ち捨てられていた小邸を風雅に改築し、結界を張り巡らせていた。

「心配はご無用です、己の躯くらい守れます」

蒼鉛は口ではそう言ったが、忠告どおりに邸に戻るべく踵を返した。
言い方はともかく、殺生丸が案じてくれているのが分かったからだ。

殺生丸は、銀花と蒼鉛の命が繋がっていることをまだ知らない。
けれどそれを、知らずに示唆するかのように呟いた。

「あれほど同じ時を過ごしていたのに、わたしは姉上のことを何も知らない・・・」

不意に殺生丸は父の言葉を憶い出した。
《おまえに、守るものはあるか》
あれから幾千もの夜が過ぎ去って逝った。
けれど、見上げた空には、あの夜と同じ望月が、今も耀いている。

 



 

打ち寄せる波音だけが辺りを包んでいる。
沈み込んだような海の藍鉄と、空の青褐が水平線で解け合って、この世の果てまで続いているように見える。
立ち止まった銀花は、一瞬、この季節に降るはずのない六花(りっか)が、空に舞ったように見えた。

屈み込むと、震える指を砂に付いて眸を閉じた。
どれぐらいそうしていただろうか、不意に立ち上がると、松林のつくる影に視線を向けた。

「彩扶錏か」

そう呼ばわれて、幻から現へと姿を顕わしたのは、この時代、人の世にはまれな金髪碧眼の青年の姿。

「流石ですね。
 わたしが実体を結ぶ前にお分かりになるのはあなたくらいですよ、銀花」

「おまえの気配は(うつつ)に在らずとも知れる」

「嬉しいですね。
 それほどわたしを気にかけていて下さるとは」

銀花は呆れたように眸を開いた後、諦めて小さく溜息をもらした。

「彩扶錏、かまわぬのか?
 京の覇権を狙うものはまだ多かろう。
 おまえが留守の間に、出雲の土蜘蛛共が仕掛けてきたら何とする」

「あのような輩、何ほどのこともございません。
 ですが、あなたにお逢いするために、こうして遠路参上するわたしを、少しは憐れとおぼし召さるなら、どうぞ共に
 京にお上り下さい」

「何度言わせる。
 おまえとの縁は遠に切れている」

「ならば、今一度、縁を結び直すため、百夜(ももよ)通ってみせましょうか」

「深草の少将は百夜目に命を落とした」

「わたしは、一刻なりとあなたが心を委ねて下さるならば、命尽きるとも悔いはありませんよ」

「たわけたことを。
 それより我との婚姻の約定が潰えた後、確か〝(みづち)の媛〟と言交したのではなかったか?」

彩扶錏の貌が嫌なものを噛み潰したように歪んだ。

「言交したなどと。
 あれは父と〝蛟の長〟との戯言、正式なものではございません。
 しかし、〝蛟の媛〟とはまったく・・・
 父はわが子が、かわいくなかったのでしょうかね」

(みづち)とは古より続く一族であるが、蛇とも蚯蚓(みみづ) ともつかぬおぞましい姿を持つ妖怪である。
水を自在に操るとも云われている。

「京の地下を流れる水を蛟の力を持って征すれば、都を手中にすることも出来よう」

「都を征するは我が一族の悲願。
 なれど、そのために、あの〝蛟の媛〟と(ねや)を共にするなどとんでもない」

「彩扶錏、おまえ、来るものは拒まない(たち)だと聞いたぞ。
 それに、大切なのは心根であろう。
 〝蛟の媛〟は誠おまえに、懸想しておられるとも聞いたが」

「いったい誰に聞いたのです。
 それに、そのような事の以前の問題なのです。
 〝蛟の媛〟だけは相容れられません」

「薄情なやつだ」

そして、ついと彩扶錏の左頬に指を添える。

「傷跡が残らず良かった」

彩扶錏は、微かに触れる指の感触に鼓動が速まった。
数々の艶事を繰返してきたにも拘わらず、まるで初心(うぶ)にも硬直している己に驚く。

「消えずに残れば良かったと思います」

銀花は無言のまま、指先を唇へと滑らせる。

「・・・済まない、もう痛まぬか?」

「ええ」

「あの時は、少し気がざわめいていた。
  怖い思いをさせてしまったな」

「あなたを怖いと思ったことなどありません。
 ですが、あなたの心が見えないのは怖い」

「彩扶錏、心の裡など見えないものだ。
 どれほど言葉を重ねても、どれほど同じ時を過ごしても、真から分かり合うことなど出来ないのではないか」

「そうは思いません。
 見えないからこそ言葉を尽くす、分かり合いたいからこそ同じ時を過ごす」

「結局は同じことだ」

「いいえ、まったく違いますよ。
 そうわたしに思わせてくれたのは、他ならぬあなただったのですよ」

「おまえはそれでよい。
 おまえが変わらずそのままで在る限り〝京〟と〝亨〟はうまく均衡が取れたままで行けるだろう。
 だが我にはもう、そうは思えぬ」

自嘲するような嗤いを浮かべる。

「あなたにそんな嗤い方は似合わない。
 旅先で何かあったのですか?」

「何も在りはしない」

「ではいったいどうされたのです。
 父君が、黄泉路の旅へ、あなたの心も連れて逝ってしまわれたか」

「彩扶錏・・・」

銀花の感情に呼応するように風が巻き起こり木々の枝を揺らした。

「そうなのですね。
 父君が逝ってしまわれた時、側におれなかったことを悔いておられるのか」

更に強まった風に彩扶錏の衣が煽られて、ほのかに金木犀の香りが漂った。
と、その香りに鎮められるように、膨れ上がりかけた銀花の気は平らかになった。

「金木犀の香り、それがおまえの匂いだな」

「そのようです。
 時節に合わないのですが、いくら違う香を焚き染めてもこの香りに消されてしまいます」

「そうか、金木犀はおまえの髪と同じ美しい金色の花だな」

遠い昔、初めて貰った金木犀の小枝。
小さな花が沢山ついたそれは、とても良い香りがした。
結界で閉じられた空間から外へ出られぬ無聊の、ほんの慰めの小枝だったが、気遣いと共に添えられた相手の、初めて見る笑顔こそが、銀花の胸を幸福で一杯いに満たしたのだった。
懐かしい記憶はその時の幸せな気持ちを憶い出させてくれたが、同時に切ない想いも呼び起こした。

彩扶錏は、己の想いに入り込んだまま、歩み去る銀花を、呼び止める術を持たなかった。

夜の静寂に消えて行く姿を見送りながら、小さく溜息をつく。
《わたしの父は、何度〝犬の長〟に挑んでも勝てなかったそうですが、どうやらわたしも苦戦を強いられそうです。
ですが、諦めたわけではありませんよ》

 



 

天空の月は、過ぎ去りし日と同じようであるが、同じではない。
春もあの時の春ではないのだろう。
時の流れは止まることなく過ぎて逝く。

だが銀花は、立ち止まったままで、一歩も動けずにいる己を感じていた。

 

《月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつが元の身にして》  在原業平 歌

第七話 月やあらぬ おわり