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比叡の山頂近くに、都の大貴族の邸すらも見劣りするほどの華麗な邸が在った。
けれど周りには結界が張り巡らされていて、余人がその存在を窺い知ることは出来ない。
ここは〝鬼族の長〟彩扶錏の私邸。
一族の本殿は、さらに荘厳なるものが鞍馬の山中深くにある。
邸の張り出した露台からは、右前方に京の都、左に琵琶の湖が見下ろせる。
夜風に金の髪を嬲せて立つ美しい青年こそが、この邸の主であった。
彩扶錏は、露台の手摺越しに、月景を映す湖面に視線を投じながらも、深い物思いに耽っていてた。
「戻られておりましたか」
声を掛けたのは初老の男だった。
貌に刻まれた皺が、味わい深い面持を際立たせているが、無論
「
おまえがこの邸に来るとは珍しいな。
わざわざ隠居所を出て来たからには、又ぞろ小言でも言いに来たか」
爺と呼ばれた老人は、名を
先代が身罷り、彩扶錏が〝長〟を引き継いでからは、洛西は
「何やら思い当たる節でもお有りでございますか、若」
「〝若〟はもうやめておけ。
思い当たりはせぬが、何なり申してみよ」
「供も連れずにどちらにお出掛けでございました」
「気晴らしだ」
「どこぞの姫の元にお通いの折りとて、供のひとりは連れて参られましょうに・・・
秘密にしたいお相手でも出来ましたか?」
「わたしに供など必要ないことぐらい分かっていよう」
「お館様のお力はよく存じております。
なにせお母君が病床に臥せられてからは、儂がお育て申し上げたようなものでございます。
ですが、万が一ということもございましょう」
ほんの少しうんざりした様子で振向いた主の左頬に、微かながらも傷跡を認めた老鬼は、目を見張った。
「頬の傷をどうされました」
「齢をとっても、目は良いようだな」
「お館様が傷をうけるなどと・・・まして頬に傷を受けるなどとは尋常ならざること。
・・・もしや〝犬の媛〟の仕業か?
やはり左様でございますか。
あの媛が帰参されたと噂に聞いてから、お館様が逢いに行かれるのではないかと、心配いたしておりましたが」
彩扶錏は訝しげに眉を顰めた。
「何が心配だと言うのだ。
この傷はわたしの落ち度なのだ。
銀花が故意に、わたしを害そうとしたわけではない」
「お館様、あの媛はおやめ下さい」
「京を制することが一族の悲願であろう。
特に齢経たものほど、永きに渡る人間どもの抵抗に臍を噛んできたのであろうが。
銀花の力があれば都を手中に収めるは容易いぞ」
「お館様には、力を得んがためにあの媛を欲しておいでなので?」
「・・・・」
「ならばおやめ下さい。
あの媛の力は〝
一歩間違えば、いいえ必ず破滅を招きましょう。
あの媛の生立ちには、暗い逸話があるのをご存じか」
「知っている。
〝犬の長〟が愛妻を死に至らしめたと、我が子である銀花に〝刃を振り下ろそうとした〟というのであろう、馬鹿ら
しい。
おおかた〝犬の長〟の権勢を妬んだものか、銀花の強い力を惧れたものが、些細な事に尾ひれをつけた作り話
だろう」
「作り話ではございません。
紛うかたなき真実にございます。
そして〝振り下ろそうとした〟のではなく〝振り下ろした〟のでございます」
「馬鹿なことを。
一太刀であろうと、あの大妖の刃を受けて、赤子が無事で済むわけがない。
が、現に銀花は生きている。
それとも躯に刀傷でもあるというのか」
「いいえ、もっと恐ろしいことでございます。
〝犬の御大将〟の怒りに任せた渾身の刃を、結界にて弾き反したそうでございます」
「な・・に・・」
「生まれてひと月足らずの赤子が結界を張った。
まして大妖怪の刃をものともせぬ結界を張るなどと、永く齢を重ねて参ったこの小角も聞いたことがございません」
「だが、生まれながらに強い力をもっていたというのだから、あり得ぬことでもなかろう」
「お館さま、本当にそうお思いなのですか?」
「・・・だからそれがどうしたと言うのだ。
一時とはいえ、銀花はわたしの許婚であった。
いや、わたしはまだそうだと思っている。
そして、それを決めたのは父上だぞ!」
「お館様、先代がそれをお決めになった時、儂や多くのものが反対いたしました。
犬族との和睦を結ぶ一時の方便であったればこそ、皆も取り敢えず納得したのです。
でなければあのような、呪われた化物じみた媛をお館様の許婚にするなど、とんでもないこと」
「口を謹め、小角!」
「・・申し訳ございません」
「呪われたとはどういうことなのだ」
「あの媛の母君は〝犬の長〟の異母姉で、名を
天女もかくやと言うほどに、お美しいお方であられたそうな。
並みいる犬一族の猛者も敵わぬほどの妖力を備え、されど優しく麗しく、誰もが朱花媛に懸想したといいます。
ですが、美しさが仇となり、あろうことか〝禍つ神〟に魅入られたのです。
しかし、愛しい姉媛を渡さぬと〝犬の長〟が妻にしてしまった。
〝禍つ神〟の怒りは深く、いずれ生まれる赤子が媛であるならば、今度こそ誰にも渡さぬ触れさせぬと呪詛を施
した。
まさに生まれし媛は、母君を死に至らしめ、妖力が強すぎて誰も触れることが出来ない。
それでも、ほんの赤子の頃は何とかなったのでしょう。
が、次第に強くなる力に、結界を巡らした離れ邸に閉じこめるように育てられた。
唯一結界内に入り触れることが出来た〝犬の長〟も、長ずるにつれて強くなる力に阻まれるようになってしまった。
そして遂には秘術をもって禍つ力を封印したそうでございます」
「益々作り話じみてきたな」
「無論、誇張された部分もございましょうが、あの媛が結界の内で育ったことはお館様もご存じでありましょう。
そしてあの途方もない力も紛れもない真実。
封印の下に、もっと怖ろしい力を秘めているのもまったき真実でございます」
「一体どんな封印を施されたというのか?」
「どのようなものかは存じません。
ですが、あの大妖怪が三日三晩を費やし、無事封印し終わった時には精魂尽きていたということでございます」
彩扶錏は銀花に抱きしめられ口づけされた時の事を思い返していた。
痺れるような蠱惑的とも言える力が、唇を通して躯の中に入り込み、魂を持って逝かれそうになった。
《あの時、銀花がわたしの唇を噛まなければ、己から力に身を委ねていただろう。
銀花はわざと唇を噛んでわたしを正気づかせた》
「お館さま、あの媛は禍つ神の申し子。
闇の
「闇の媛皇女だと。
銀花は霊獣黒麒麟を連れていた。
闇の媛に霊獣が付き従うのか?」
「黒麒麟でございますか。
ならば、大陸より渡ってきた妖しから聞いた噂話は本当でございますな」
「なんだ、それは」
「『己の手で妖魔・妖獣を滅することが出来る黒麒麟を、銀の妖しが従えた』、と」
「あの麒麟、戦えるのか」
「血や怨嗟に病みはいたしますが、如何ばかりかは耐性があると聞きました。
なにせ、生まれ出でたと同時に、襲ってきた妖魔をずたずたに引き裂いて、血海の中で産声を上げたそうでござ
います。
似ておりましょう、かの媛と。
お館様、あの媛は妖しの中にあってさえ異形、それに麒麟の異形が呼応したのです。
拘わるのはお止め下さい」
「もうよい!下がれ」
「お館様・・・」
露台の外に貌を向けて、己の思いを巡らせ始めた彩扶錏の耳には、もう小角の声は届いていなかった。
彩扶錏は、あの時、銀花の眸の奥に過ったものを思い出していた。
その身に封印されし禍つ力、だがその唇は、
《涙よりも暖かい・・・》