第十一話 夜這い

 

《おかしい!》

黒麒麟の蒼鉛は、その優美な眉を寄せた。
蒼味がかった黒の眸が追っているのは、何やら落ち着きなく庭を徘徊している、金髪碧眼の青年の姿だった。

この邸の主である銀花は、他出している。
ここに落ち着くようになってから、銀花は蒼鉛を置いて度々独りで出掛けるようになった。
たいてい夕刻には戻ってきたが、時には一晩、邸を空けることもあった。
常に主の側に在ることが幸せである麒麟にとって、独り置かれることは、寂しく、落ち着かない心地になる。
主の戻らぬ夜は一晩中まんじりとも出来ず、唯、冴え冴えとした月を眺めるしかなかった。
銀花が戻らぬ夜、それは決まって望月の夜であった。
そして、次の望月は明晩である。

「彩扶錏殿、そちらの渡殿(わたどの)は主の寝所に至るもの、立ち入りはご遠慮願います!」

庭づたいに渡殿の奥を窺う、狩衣姿の背中に鋭く釘を刺した。

「ああ、そうでしたか。
 それはすまない」

素直に引き返しながらも、きらりと彩扶錏の眸が光ったことを、無論、蒼鉛は見逃さない。

「ところで蒼鉛、今宵、銀花は戻られるのか?」

「はい、夕刻にはお戻りになりましょう」

蒼鉛は、これとまったく同じ受答えを、一刻(いっとき)ほど前に殺生丸と交わしている。
いつも連れている、小妖と人間の子供も伴わず、ふらりと独りでやって来たのだ。
常ならば、幾日か逗留していくのに、今日に限っては、銀花の今宵の在宅を確かめると、直ぐに帰っていった。
そして、その殺生丸も何度か、件の渡殿の奥へ視線を向けていたのだ。

「さて、銀花がまだ戻られぬなら、わたしは帰るとしましょう」

「えっ、まさか京へ帰られるのですか?
 何か悪いものでも食されて、具合でもお悪いか?」

以外そうな蒼鉛の言葉に、彩扶錏は大げさに貌を顰めて見せた。

「なんです、その言いようは?
 銀花が留守なのに、おまえの貌を見ていたってしかたないでしょう」

「無論そうですが、銀花様に逢わずに帰られることなど、ついぞ無かったことなので」

「わたしとて、銀花に逢わずに帰京するのは心残りですが〝鬼族の長〟として為さねばならぬ事もある。
 そうそう暇な躯ではないのですよ」

「そうですか。
 頻繁に来られるので、大した仕事もなく暇なのか、却って邪魔にされているのだろうと思っておりました」

「心外な!
 わたしが居らぬと、鬼族は立ち行かぬ。
 それを、愛しい恋いびとに一時なりとも逢うために、万難を排し、時をやりくりして遙々とやって来ているのだ。
 そこのところをもう少し、銀花には解ってもらいたいものです」

「誰が恋いびとですか!
 別に、銀花様が頼まれたわけでも、待っておられるわけでもない。
 あなたが来ないからといって何一つ困りませんがね」

「蒼鉛、おまえは女心を解っていない。
 銀花自身も気付かぬ内に、わたしが来るのを待ち侘びるようになってきているのだよ。
 その証拠に、わたしが姿を見せなくなれば、心配になり、寂しくも感じるはずだ」

「ならば試しに、姿を見せぬようになされては如何です?
 完璧に忘れ去られると思いますが」

「そんなことは絶対無いです。
 ですが、わたしは銀花に対して、恋の駆け引きをしようとは思いません。
 唯、愛しい相手のためになるなら、どんな事でも、どんな無理でもするつもりです。
 たとえそれが、周りのものや、愛しいものをも欺くことになろうともです。
 愛とは、惜しみなく与えるものでもあり、時には奪うものでもある。
 わたしは、愛を貫き通すためには、一時の汚名すら厭わない!
 熱い想いは、必ずや届くと信じるからです!」

清切(せいせつ)に愛を語っているようだが、蒼鉛には彩扶錏が良からぬ決意を固めているようにしか見えなかった。

「なにやら、はた迷惑な感じですが、一応、よいお心掛けだと申しておきましょう」

「そうだ蒼鉛、忘れるところでした。
 これを銀花に差し上げて下さい」

彩扶錏は狩衣の懐から、小ぶりな瑠璃の瓶子(へいし)を取り出した。

「播磨の酒〝月の雫〟です。
 今宵は十四夜、満つる前の月も初々しく、心ときめくものです。
 これを伴に、月見などなされるがよろしかろう。
 ご一緒出来ないのは残念だが、おまえがお相手して差し上げるがいい。
『わたしも独り、我が〝月の(うてな)〟で、愛しい銀花の貌を月に重ねて見上げております』
 と、伝えておくれ」

蒼鉛は、なにか危険な物のように、酒の入った瓶子を受け取ると、心の裡に思ったことが、つい口を衝いてしまった。

「まさか、怪しい呪いでもかけてあるのでは・・・」

小さく呟かれたにも拘わらず、彩扶錏は聞き漏らさなかった。

「おまえねえ・・・、ならば、先に毒味をすればいいでしょう!
 だが、飲む寸前までは封を切らずにおきなさい、香りが飛んでしまうからね。
 では、くれぐれも銀花によろしく伝えておくれ」

飛び去る彩扶錏の後ろ姿と、手に持った瓶子を交互に見比べながら、蒼鉛は最近取れなくなってきた眉間の皺を、さらに深くした。

 



 

夜気の中に、碧い月の景だけが静かに降りそそいでる。
望月に少し満たないその月は、後いくばくかで中天に差し掛かろうとしていた。
深い水底のように、動かぬ空気の中を月明かりを避けるように、渡殿のつくる影の中を移動するものがあった。
金色の髪が月景を弾かぬようにか、頭に墨色の布を被っている。
性が妖しであるので、音を立てずに振る舞うことなど容易いが、それでも抜き足で忍ぶのは、一抹のやましさがあるせいか、それとも、沸き立つ期待を抑えるためなのであろうか。

彩扶錏は、想いびとの部屋の戸口で佇むと、内の気配を窺った。
昼間、蒼鉛に渡した酒には〝睡夢〟の秘薬が混ぜ込んであった。
時を経て、それ自体が強い霊力を蓄えた霊芝(れいし)を原料に、造られた秘薬は無味無臭で、いかな鼻の利く犬妖といえども気付くことはない。
それは、ゆるゆると眠気を誘い、深い夢の境地に遊ばせる秘薬である。

主思いの蒼鉛は、必ずや自身が先に毒味をする筈であった。
とすれば、蒼鉛も眠りの中に取り込まれているはずなので、邪魔をされる恐れはない。

意識のない相手を抱くというのは、些か不本意ではあるが、さすがの彩扶錏であっても、面と向かっては銀花の敵ではない。
銀花を〝禍つ力〟から解放するためには、姑息な手段ではあるが、この際、致し方ないことなのだ。
決して肉欲からの行為ではないと、故に、それは許される事だと、彩扶錏は手前勝手な結論を導き出していた。

ひとつ小さく息を吐くと、そろそろと障子戸を滑らせる。
闇が占めていた室内に、月の景が一筋差し込んだ。
景が眠っている銀花に当たらないよう、彩扶錏は素早く躯を滑り込ませた。
閉め残した僅かな隙間から、薄く差し込んだ月景に、上掛けの下の優しい曲線が、朧に浮かんでいる。
室内には強い梔子(くちなし)の香りが漂っていたが、すでに下半身に血液が集中し始めていた彩扶錏の脳は、それに警告を与えることはなかった。

褥の側に膝をつき、薄い上掛けの下に右手を差し入れた。
銀花は気付く様子もなく、甘やかな寝息を立てている。
夜着の合わせ目から忍ばせた指先に、つっと触れた肌は、絹のように滑らかで、彩扶錏の下腹がずくりと疼いた。
更に小さな蕾を求めて奥をまさぐる。
思いの外、平らかな胸に驚くが、そのほうが返って彩扶錏の好みと気をよくする。

《しかし、あまりに・・・》
と、思った時、指先に求めていた蕾が触れた。

「あっ・・」

微かに漏れたかわいらしい喘ぎに、彩扶錏の高ぶりから、痺れる刺激が脳天まで駆け上がった。

《ええぃ、ままよ》
と、一気に覆い被さろうとした。

「血迷われるな!」

「へっ?・・・その声は・・・」

よくよく見ると、たった今まで躯をまさぐり、覆い被さろうとしていた相手は・・・

「蒼鉛!」

差し込んだ月明かりにありありと、厭そうな貌を浮かべている。
その時〝たんっ〟という小気味よい音と共に、障子戸が開け放された。
そこには月の景を背に立つ姿があった。
僅かに立ち位置がずらされると、逆光の貌の半分が浮かび上がる。

「銀花!?」

硬直する彩扶錏から逃れるべく、蒼鉛が身じろぐ。

「彩扶錏殿、早く手を離してください!」

「なんと!
 では、おまえも銀花も〝月の雫〟を飲まなかったのか!」

「わたしが、得体の知れないものを、銀花様の口にお入れすると思われるか!
 毒見をして、直ぐに霊芝が使われているのが判りました。
 それが邪な目的のために使われたこともね。
 ですが、わたしは霊獣。
 霊芝の力など何ほどのこともない!」

《こやつを甘くみすぎた》と、彩扶錏は臍をかんだ。

「彩扶錏、なんのつもりだ」

低く抑えた銀花の声には、怒気と呆れと可笑しさを堪えるような響きがあった。

「つまり・・・その・・ですね・・・・なんというか・・・・ようは・・
 ・・・仔を成せば・・あなたが・・・」

「〝禍つ力〟から解放されると思ったのか」

「そうです、それです。
 仔を成せば、その力は何代か後まで流れると聞きました。
 あなたのように生まれながらに力が芽吹くことは稀なのでしょう。
 わたしは、あなたを呪縛から解き放ってあげたかった」

「それで、夜這いか!
 我が、この〝禍つ力〟を疎ましく思っているとでも?」

「違うのですか?
 わたしは、初夏の日差しのような、あなたの笑顔が大好きでした。
 でも、眸の奥に隠された影に孤独に気付いてしまった。
 だったら、わたしの成すべきことはひとつ。
 それを取り除くまでです」

ほとんど、肉欲に突っ走りかけていた彩扶錏の言葉には、およそ説得力がないと蒼鉛は思った。

「なるほど、いずれ〝蛟の媛〟あたりから聞き出したのであろうが・・・
 おまえは〝冥加〟から聞いたのか?!」

銀花は、部屋の奥の衝立に向かって言った。
彩扶錏がそちらを見やると、衝立の影から、真朱の覆面をしたものが現れた。

「殺生丸!!」

彩扶錏は驚いた。
まさか同じ室内に殺生丸が潜んでいたとは。

「ほう、姉媛に夜這いをかけるとは、呆れたものですね、殺生丸!」

己の行いを顧みることもなく彩扶錏はしゃあしゃあと言い放った。

「きさまだけには言われたくない!」

「子供が一人前に夜這いなど、百年早いですよ」

「きさまならいいとでも」

「わたしは、あなたより百歳年上です」

「なるほど、齢を重ねると『あなたを呪縛から解き放ってあげたかった』
 などどいう、おためごかしが、しらしらと言えるらしいな」

「なにがおためごかしですか!
 わたしは真摯に銀花のことを案じて行動したまで」

「ふふん!
 先ほどのきさまからは、自制の利かなくなった欲望の匂いしか、しなかったがな」

「そう言うあなたはどうなのです!
 鏡を覗いてごらんなさい。
 姉媛を襲う情欲の滾った不埒な輩の貌を見ることになるでしょう」

「鏡を見るのは、きさまの方だろう。
 こそ泥ほっかぶりが、見事に板についているぞ」

「あなたこそ、怪しい覆面がよくお似合いで」

殺生丸は、きりきりと眉を顰め、金色に光る眸で彩扶錏を睨みつけ、彩扶錏は、その碧い眸に、これ以上ないくらいに冷たい光を宿した。

「あぁ、二人とも、くだらぬ言い争いはやめよ、情けない!
 彩扶錏、おまえのその姿を臣下が見たなら、皆、世を儚むぞ。
〝京の鬼族〟の頂点、都の黄金と讃えられるおまえが何たる有様」

「・・・こんな筈では」

「姉上、所詮こやつなどこの程度。
〝鬼族〟も先が見えたな」

「殺、おまえもだ!
 我はそのように育てた覚えはない。
 我であっても、婦女子の寝所に忍び込むなど持っての外だ、嘆かわしい」

「は・・い、申し訳ございません」

「ともかく我は、仔を成して〝禍つ力〟を後裔(こうえい)に委ねるつもりは毛頭ない!」

銀花はそう言うと、背中を向けて着ていた夜着をするりと落とした。
天空の月景で、躯の輪郭を浮き上がらせた銀花の白磁の背に、緋色の紋様が描かれていた。
それが封印であるという前に、ともかくその銀花の姿は、息をするのもしばし忘れるほどに美しかった。

真中の星型、五芒星は禍つ力の証。

五芒星の頂点を囲うように、二重の円が描かれている。
そして、更にそれを囲うように、複雑な紋様が施してあった。
紋様の一部は、銀花の右脇腹へと続いていた。
処どころ、自ずから発光していて、妖しい美しさを醸し出している。

「五芒星を取り囲んでいるのが封印の入れ墨だ。
 父上の血で彫られている。
 我は二度、父上の封印の施術を受けている。
 一度目は、結界の中から出る時。
 二度目は、我が旅に出た三月前だ」

殺生丸は憶い出した。
確かにその頃、いつも一緒にいた姉が、所用で邸を空けたことがあった。
たった三日間であったが、殺生丸は辛く永い時間に感じた。
寂しくもあったが、何よりも姉が心配だったのだ。
銀花が戻り、無事な姿を見てどれほど安堵したことか。
殺生丸はその頃から、いつか銀花が手の届かないところへ往ってしまいそうな予感がしていた。

「二度目の封印の時、我は父上にお願いして、仔を成す力も封印して戴いた」

振り向いた銀花の、右脇腹から続く封印の紋様は、下腹部へと達していた。

「なんということを!」

彩扶錏は呻いた。

「連綿と続いてきた〝朱家〟の運命(さだめ)も、我で終わらせる」

「姉上、まさか・・・」

殺生丸の眸が揺れる。

「案ずるな、己が命を粗末にするつもりはない。
〝禍つ神〟が目覚め、力を取り戻し、どうするつもりかは分からぬ。
 どちらにせよ、妖し共は唯では済むまいし、人間も巻き込まれよう。
 だが、むざむざこの世を破壊させたりはしない。
 必ず阻止してみせる」

「銀花、わたしや殺生丸が心配しているのはそんなことではありません。
 あなたのことが心配なのです。
 もし、戦うというなら、それは壮絶なものとなるでしょう。
 同じ大きな力が衝突すれば、与えた打撃と同じものが反ってくる。
 負わせた傷と同じ傷をあなたが負う。
 あなたが傷つくのを見たくないし、耐えられない」

「姉上、仔をなして力を流せないなら、どこか〝禍つ神〟に気付かれぬ所にお逃げ下さい。
 あなたが戦うことはないのです」

「殺、どこにも逃げられぬし、逃げるつもりもない。
 それに〝禍つ神〟を止められるのは、我より他にないであろう」

「なぜです、妖しの中には姉上を惧れ蔑視してきたものが多かった。
 そんなやつらのために戦うおつもりか!
 わたしはこの世がどうなろうと知ったことではない。
 姉上さえ無事ならそれでいい」

「なあ殺、この夜の帳の下、数多のものが明日が来るのを信じて疑わず安らかに眠っていよう。
 それは母の腕の中の赤子かもしれぬし、愛しい相手の腕の中の恋人かもしれぬ。
 そしてそれは妖しでもあるし、人間でもあるだろう。
 もっと小さな生き物でも、草木でも同じだ。
 その明日を断ち切るものがあるなら我は戦う」

「わたしには分からない。
 何故そんなふうに思えるのか」

「分かるよ殺、おまえなら」

「銀花、あなたは
《誰も、真から分かり合うことなど出来ない》
 そうおっしゃられましたよね。
 それでもこの世のために戦うと」

「ああ、そうだ。
 分かり合えずとも守ることは出来るだろう。
 別段、誰かに感謝してほしいわけではないし、大きなことを言っているわけでもない。
 唯、我がそうしたいから、するだけだ。
 愛しいものを守りたいなら、それを守ろうとするだけでは不十分なのだ。
 我はもう、後悔だけはしたくない」

「姉上、その封印は父上が身罷られたことで効力が弱まるのですか?」

「それはない。
 父上の封印は健在だ。
 だが、当初から完璧に力を覆い隠すことは出来なかった。
 術は完璧なのに、原因が解らぬと父上もおっしゃっていた。
 布についた小さな滲みのようなものだ。
 布を引き伸ばせばその瑕疵(かし)も引き伸ばされる。
 我が妖しの力を膨らませれば、漏れ出でているその力も膨らむようだ」

大妖怪であった父の力さえ遥かに凌駕する力を秘め、強く、気高く、優しい女妖。
だがその強さが、気高い潔さが、優しさが、殺生丸にも彩扶錏にも、蒼鉛にとっても不安だった。

「そんな貌をするな、まだ時は満ちていない。
〝禍つ神〟の目覚める気配はないよ。
 おまえ達が我を案じてくれる気持ちは有難いと思う。
 だが、夜這いとは関心出来ぬ。
 彩扶錏にいたっては、秘薬を使うとは、さらに罪が重い。
 これは少々、仕置きが必要なようだな」

そう言って艶然と微笑んだ銀花の貌が、突然歪んだと思った刹那、殺生丸と彩扶錏は前後不覚の闇に囚われた。
殺生丸は、闇に落ちていきながら、室内に濃く立ちこめていた梔子の香りに思い至った。

《あれは・・・眩惑香・・・・》

 

第十一話 夜這い おわり