第十七話 七夕の朝露

 

その池は一面に蓮が繁っていた。
七夕(しちせき)の早朝、まだ辺りは暗く西の空低くには細い月が心許ない(ひかり)を掲げている。

蓮の葉の上には、朝露が降りて美しい珠のように幾つもきらめいている。
中でもひときわ清らかな露玉を捜して、あちらこちらの葉冠を覗き込む銀花の姿を、池の畔りに座った殺生丸は愛しげに眺めていた。

こうして、銀花とふたりきりで過ごすことは、久方ぶりである。

銀花が永の不在から戻った時には、常に付き従う〝半身〟だという麒麟を伴っていた。
その上、京の〝鬼の長〟までもが鬱陶しくも纏わりついている。

殺生丸にも付き従う家来の小妖と、守ってやらねばならぬ人の幼子がいたが、時には以前のように銀花とふたりだけで過ごしたいこともあった。
そして、問うてみたいことがあった。

「姉上、お訊ねしたい事がございます」

「うん?」

「姉上は近頃・・・・
 いえ、姉上はあの時どうして邸を出られたのです?
 あの頃、一族の中には、父上を廃して姉上を担ぎ上げようという動きがあったそうですが」

「ああ、獅子身中の虫だ。
 そのような馬鹿者どもに利用されたくなかったからな」

「されど、姉上が否とおっしゃればそれまでの事、姉上が遠く日ノ本を離れられた理由が見あたらない」

「あの時も申したであろう、麒麟が見たかったのだ。
 殺も我の添寝が必要な齢でもなくなっていたしな」

「そのような戯れ言を!
 わたしはもうあの頃の子供ではないのです」

「嘘ではない、現に蒼鉛を連れ帰ったではないか」

銀花は
《金の鬣を靡かせ天翔る麒麟を見てみたい》
と言って、殺生丸を残し旅に出たのだった。

「ですが、あれは金の鬣の麒麟ではありませんが」

「おい、それを蒼鉛にはもう言うなよ。
 初めて逢った時、そう言っただろう。
 あれは己が黒麒麟であることを気にしているのだ。
 我も初めて逢った時に 『鬣が金でない』と口をすべらせた。
 かなり傷ついたらしい」

冗談めかした言葉の中に、この話を続けたくない銀花の気配が見て取れた。

出奔の理由は気になるところではあるが、銀花が話したくないのであればことさらに聞き出すつもりは殺生丸にはなかった。
それよりも訊ねたいことは他にある。
殺生丸が本当に訊ねたかったことは、望月の夜になると、このところ様子のおかしくなる銀花に、何があったのか訊ねたかったのだ。
明け方に戻った後はいつもと変わらないが、月が東の空に姿をみせる頃は落ち着きもなく、苛立ちすら見せる。
殺生丸は銀花が苛立つのをかつて見たことがなかった。
だが、今少しこのまま銀花と静かな時を楽しみたかったので、殺生丸は口を閉ざした。

「何をなされているのです?」

「おや、殺は知らずに付いてきたのか?」

「わたしは、姉上が来いとおっしゃれば、どこえなりともお供いたします」

「あははは、そう言えば昔、ふたりで茸取りに出掛けて、この先は崖で危ないからその場で待つよう言い置いた後
 夢中になって茸を採っている間にすっかり殺の事を忘れてしまった事があったな。
 あわてて戻ってみると、待てと言い置いた寸分違わぬ場所に、退屈しのぎに掘った穴の中で、おまえが泣き疲れ
 て眠っているのを見つけた」

「そのような事がありましたか?」

憮然と答える殺生丸に、銀花は懐かしそうな笑い含みをみせる。

「あったあった!
 独りで邸に帰ることも出来たであろう。
 泣くほど心細いのに何故あの場所を動かなかった?」

「姉上の言葉は絶対だったのです。
 待てと言われれば待つしかない」

「今でもか?」

「さあ、理不尽なご命令には従いかねましょう」

「そうか」

優しく見詰める銀花の眼差しがこそばゆいが、本当はもっと違う眼差しを殺生丸は望んでもいた。

銀花はこれが良かろうと蓮の葉をひとつ手折った。
葉の上に降りていた露がころころと転がる。

「七夕の朝、蓮の葉に降りた露を口に含むと、妖力が増し更に命も延びると云われている。
 殺が怪我などせぬようにと願ってな」

「姉上はいつ迄もわたしを子供扱いなさる」

「しかたあるまい。
 成りは大きくなっても、我にとって殺は幼い頃のままの愛しい弟なのだ」

〝弟〟という言葉がちくりと殺生丸を刺す。
銀花は蓮の葉の露を零さぬように、ゆっくりと殺生丸の傍に膝を付く。
銀花の艶やかな唇を間近に見て、殺生丸は眸が離せなくなっていた。

「ほら、口を開けろ」

さらに近づき息がかかる距離になると、殺生丸の躯にずきりと痺れが走った。

「姉上、真に相手の健勝を願うなら口移しで露を含ませるのが一番であると申します」

殺生丸の言葉に片眉を僅かに上げて銀花は答えた。

「ほう、それは知らなかったな。
 では、愛しい殺のためにそのように」

銀花は蓮の葉の露を己の唇に含み、そっと殺生丸に口付けた。
露をすべて殺生丸の唇に含ませ、躯を引こうとした銀花のうなじに手を回して深く口付ける。
柔らかく香しい唇を味わい、舌を差し入れて絡ませる。

「んっっ・・」

銀花の甘い吐息に満足して唇を離した殺生丸は、
《もう子供ではありませんよ》
と見詰める。

銀花は先ほどとは違う方の片眉を上げて言った。

「ああ、残らず殺に含ませてしまったが、我に少し返してくれぬか?」

銀花は啄むようなくすぐるような口付けを与えた後、殺生丸があっと思う間もなく、深く口付け、緩急自在な舌の動きで殺生丸を翻弄しはじめた。

「んんんっつ・・んっ」

今度は殺生丸が甘く切なく喘がされる番であった。
殺生丸の唇を存分に味わった後、ゆっくりと唇を離し、まだ息のあがったままの殺生丸に、さらに駄目押すように耳を吐息でくすぐりながら囁いた。

「甘露であった」

銀花は、すっくと何事もなかったように立ち上がる。

「さて、帰るとしよう。
 そろそろ夜が明けてきたようだ」

殺生丸は躯も頭の芯も〝じん〟と痺れていて立ち上がれない。
もうあと少しでも長かったなら、口付けだけで()かされていただろう。
銀花は殺生丸を振り返り艶然と微笑んだ。

「この姉に挑もうなど百年早い」

 

その後、殺生丸は半刻ばかりその場で座り込んだままであった。

 

第十七話 七夕の朝露 おわり 

このお話は、母の友達が愛犬のシェパードと山菜採りに行って、愛犬に〝待て〟をさせたまま、すっかり忘れて家に帰ってしまい、戻ってみると、退屈だったのか、体がすっぽり入る穴を掘って、その中でじっと待っていたという、かわいいエピソードをヒントに書いてみました。

本来は七夕の早朝、芋の葉に降りた朝露で墨をすって、短冊に願いを書けば、願いが叶うとか、字が上手になるとかだそうですが、芋の葉ではあれなので、蓮の葉っぱに取り替えてみました。