第二一話 供 血 終話

 

琵琶の湖の水面から、僅か一尺ばかりの中空にふわりと浮かんだ人影は、立てた己の片膝に頬杖を付いて此方を見やっていた。
人の姿ではあるが人でないのは金と銀に耀く双眸からも窺える。

見詰める先には岸辺から湖の中程まで続く篝火の景。

湖岸に暮らす人間の眼には陽炎のように揺らめいて、ぼんやりとしか視えず゛〝鬼火〟と呼ばれて恐られていたが、人ならざるその眸には、残光も消えうせ墨々と浮び上がった、比叡の山景と篝火に暎る舞台、そしてその上の秀麗な舞姿は、一幅の幽玄なる画のように映っていた。

僅かに唇を綻ばせ雅な舞を楽しんでいたのが、舞台の舞手が朦と消えうせると、その金と銀の眸を剣呑に眇めた。
束の間思案していたのが

「・・・入れぬか」

と一言呟き、ふわりと湖上を跳び越えて岸に降り立つ。
そこにはぬばたまの髪が月影を蒼く反す、すらりとした姿が在った。

「徃くぞ」

己よりも頭ひとつ分近く背が高く、異国風の衣を纏った腕を取り軽々と飛翔し始める。
もの問いたげな黒い眸には応えず、夜気を分かつように南に下り逢坂山を越えて徃く。

銀花と蒼鉛、殺生丸は彼らを巻き込んだ騒動を治めて帰途についたが、途中で銀花と蒼鉛は霊峰不二の裾野にある温泉に立寄るために殺生丸と別れた。
それは強い怨嗟・汚濁に晒された蒼鉛の禊のためではあったが、銀花の邸に引かれている温泉でも効果は十分に望めたものを、わざわざ不二に寄ったのは、その後で再び近江に戻る事に殺生丸を心配させない配慮であった。

近江に戻るのは、二夜目の供血の儀式に際して、またぞろ〝鬼の長〟彩扶錏が狙われることを案じてかと蒼鉛は思ったが、この場を離れる銀花の真意が解らない。

「どちらにおいでになるのです」

「京だ」

「儀式が終わる頃に再び戻られるのですか」

「いや、そうではない。
 彩扶錏の姿が消えたのは〝鬼哭の剣〟に力を与えている〝闇魔〟の造した結界に入ったからだ。
 あの裡で彩扶錏は己が妖力と引換に強い力を剣に得る。
 それを我は止めさせる」

「けれどその力は鬼族に必要なものなのでしょう」

「まあな。
 しかし、彩扶錏は〝供血の儀式〟を厭うている」

「そうおっしゃったのですか?」

「いや、あれはそんな事は言わぬ」

聞かなくても確かに感じ取ったということなのであろうが、それはとりもなおさず銀花が彩扶錏を気に掛け、そしてよく解っているということだった。

「あの結界に入らねば始まらぬが、あそこからでは入れぬからな」

「銀花様でも無理なのですか」

「無理というわけではないが、荒事になろうほどに鬼どもが騒ぐ。
 それに、結界内の彩扶錏にも類が及ぶやもしれぬ」

銀花は己に少しでも係わるものに気遣いをみせる。
それは特別なことではないが、彩扶錏への気遣いが蒼鉛を微かに苛立たせた。

ある意味治療とも言える事であったが、確かに銀花と彩扶錏は肌を合わせた。
そしてそれがふたりの間を確実に縮めた、と感じるのはあながち蒼鉛の思い過ごしとは言えない。
すぐ傍に銀花が居るというのに蒼鉛は胸に冷たい風が吹き込むような心地がするのだった。

「あれだ」

銀花の示す宵闇の先に鬱蒼とさらなる闇の影を落とすものがあった。

「荒れた楼門ですね」

「羅生門だ」

「厭な臭いがいたします」

「さもあろう、この裡には鬼の屍が累々とある」

「鬼の墓場なのですか」

「ではないがな。
 ここは強い呪に守られた都と洛外の狭間。
 狭間というのは善きにつけ悪しきにつけ様々のものが凝ごる。
 そして京には鬼の眷属が多い」

「それは彩扶錏殿の一族の鬼ということですか」

「彩扶錏の一族は鬼属の頂点だが、その裾野は広い。
 いちがいに鬼と言っても様々なのだ。
 人間が陰の感情から妖しを引き寄せ新たな鬼となることもある。
 犬夜叉達が追いかけている奈落という半妖もそうだ。
 人間達は、妖しや怨霊をひとくくりで〝鬼〟と呼ぶが、実はまったく違う。
 真に彩扶錏の一族と呼べるのは鞍馬に集うことが許されたものだけだ。
 臣下の数も多く、末端では彩扶錏の貌すら知らぬのではないかな。
 まして〝京〟や〝亨〟で庇護下にある妖しは膨大だろう」

「まるで、ひとつの国のようですね」

「そうだな。
 それらの安寧が彩扶錏の肩に懸かっている。
 彩扶錏は王と言えるかもしれぬ、それも善い王だ」

「普段の素振りからは想像出来ませんが」

「そんなものだ。
 それなりに気苦労もあるのだろう。
 われらに見せている貌が本当の彩扶錏だよ」

蒼鉛の胸がまたちくりと痛む。

「それで屍とは・・・」

「剣に力を与える見返りに、〝闇魔〟は百の鬼の血を欲した。
 血というのは要は力だ。
 肉を喰うのでもかまわんが、一番手っ取り早く己が力と出来るのが血だ。
 鬼族は数代前からは生贄の血に代えて、二夜にわたって〝長〟の強いの妖力を直に供してきた。
 しかし足りなかったのだろうよ。
 口穢い〝闇魔〟は時折、羅生門に集まる鬼を喰うていたのだ。
 ここなら集まる妖し同士のいざこざも多く、鬼の屍臭がしても誰も気にせぬ」

「まだ新しい死臭がしますが、彩扶錏殿が供血される現世でも鬼を喰ろうているのですか」

「ああ、彩扶錏が知れば気を悪くしような。
 ここには〝闇魔〟が獲物を捕食するための路が結界内までついている」

銀花はその路を通って結界に侵入するつもりなのだ。
だが銀花は再び飛翔した。

「羅生門に入られるのではないのですか」

「ここには妖しが集まると言ったろう。
 おまえをここに置いておけまい。
 すでにおまえの血肉を狙う幾つもの眼が柱の陰から物欲しそうに見ていた」

他の妖しと違い、麒麟の血肉を唯喰うても力を得ることは出来ない。
麒麟との契約が必要なのだ。
故に、己が死に際してその屍を喰うことで霊力を分け与える契約によって麒麟は妖魔を使令となす。
だがそんなことを知らない妖しは蒼鉛の血肉を狙う。
よしんば知ったところでやめるわけはないだろう。

「わたしはお供出来ませんか?」

「当たり前だ。
 せっかく不二の霊水で禊したのにまた汚濁を浴びるつもりなのか?
 あの裡は夥しいまでの怨嗟の坩堝(るつぼ)だ」

「足手まといにならぬとお約束いたします」

「おまえはまたその手を汚すつもりなのか。
 真白い絹ほど染まり易い、その内ちょっとやそっとでは穢れが落ちぬようになるぞ」

「構いません、直に血を浴びなければさほどにも病みますまい」

「馬鹿なことを。
 今朝のこともおまえの力が必要であったからやむなくだ。
 でなくば我と離れておまえひとり怪しい蝕の入り口を探しに行かせたりしない。
 どうにもならぬ時以外は危険をさけて通るが肝要」

「それではあなたと供に歩けない。
 いつも背中を見送るのは嫌なのです」

「十二国の王誰ひとりとして麒麟を戦場に連れて行くようなものはいまい」

「わたしは台輔ではないし、尽くす国も民もない。
 わたしにはあなたしかないのです。
 命を危険に晒してあなたのお命も危うくしたりはしません」

「そんなことを案じてはおらぬ」

「わたしが饕餮のような強い使令をもっていたら、あるいは弟君や彩扶錏殿のように存分に戦うことが出来ればい
 つも傍におれるのですか」

「蒼鉛、おまえは躯を守るためでも相手を滅したら心が萎えよう。
 それを押して手を汚せば、たとえ怨嗟や汚濁に耐性があっても、いや、あるからこそ病む前に己の心の闇に飲ま
 れることになる」

「わたしは少しばかり戦う事が出来てもしょせん半端な麒麟ということなのですね。
 それに王でないあなたには仁の獣など必要ない。
 やはりわたしは足手まといなだけだ」

「どうした疲れたのか、今宵はおかしいぞ」

貌にかかる前髪をかき上げるように撫でてやる。
だが蒼鉛はどこかが痛むように眉を寄せる。

「どうしてわたしに手を差し伸べられたのです。
 わたしが幾らあなたに王気を感じたとしても、あの世界の住人でないあなたは拒否することも出来た。
 主を持たぬ行き場のない異形の麒麟を哀れに思われてか。
 あなたはほんの気まぐれでわたしを拾われたのかもしれないが、あなただけを見ているものには、その優しさが時
 に諸刃のように突き刺さることもある」

まろび出てしまった言葉に自身で驚き、見詰めた主の眸には明らかな苛立ちがあった。

「・・・今はおまえとやくたいもないことを論じている暇はない」

降り立ったそこは羅生門から程近い寺社の一角であった。
もみじの群棲が東山に向けて回廊を形作るように続いている。
早、色づいた木々が月影に浮かぶ五重塔と相俟って、幻想的な世界を創り出していた。

銀花はひらりと衣を脱ぐと、肌にぴたりとした別の黒い衣装を纏っていた。
その脱いだ衣を蒼鉛に(かづ)かせ、抜きはなった愛刀の鞘を渡す。

「ここは東寺の神域、なまじな妖しは入ってこれぬが念のためだ。
 衣はおまえの姿や気配を消してくれ、鞘は更に結界を張る。
 我が戻るまでここを動くなよ」

口を開きかけた蒼鉛を制して念を押す。

「すぐに戻る。
 ここでおとなしくしておれ、よいな」

独り残された蒼鉛の心は、自責の念と己に向けられた初めての主の怒りとに千路に乱れてその眸には美しい景色も何も映っていなかった。

 



 

《ここはどこなのだろう・・・ 躯が重い・・・》

彩扶錏は無性に心もとなかった。
浮いているようだが飛翔しているのとは違う。
上も下も右も左もない。
力を無くし、武器も持たず無防備なままで暗闇に放り出されたような心地がする。
妖力を持たない人間とはこのような感じなのだろうか。
眼は見えているのに頭の中に靄がかかったようではっきりと認識出来ない。
肌がちりちりとしたものを感じ、厭な何かが近づいてくるのだけが判る。

・・・ それは前にも感じたことがある厭なもの・・・何度も・・何度も・・・・

生暖かいものが躯を撫でまわし始める・・
衣を纏っている感覚はあるのに、布を素通りして直に肌に触れられているようだ。
まるで空気自体が淫猥な意志を持って彩扶錏を弄んでいるようだった。

「あっ・・あっああ・・・っん・・」

いつの間に衣が剥ぎ取られたのか、外気に触れる肌がうそ寒い。
晒けだされ、開かれ、まさぐられ、好き放題の仕打ちに心の否は巨岩のように重量を増すが、躯は早々に裏切り始める。

「んあっ・・んんっ・・・」

撫でさする動きが躯の後ろに回されあらぬところにまで侵入しようとする。

「よ・・せ・・・厭だ・・やめろ・・」

数多の艶事を繰り返してきた彩扶錏であるが、一方的に嬲られるのは我慢がならない。
声にならない叫びを上げる。

 

「そこまでだ」

突然の声に覆いかぶさっていたものが離れた。
彩扶錏は安堵し、厭な何かと己の間を隔絶してくれたものを見極めようとしたが、朦朧として網膜は明確な映像を結ぶことは出来ない。
音は聞こえているが意味をなしてはくれない。
だが彩扶錏には割って入ったものが己を庇ってくれているのだけははっきりと解った。

 

銀花の目の前で芒としていたものが凝縮して明確に人型を取り始めた。

「じゃまをするのは何ものだ!」

居丈高に叫ぶ姿は人間でいうなら中年くらいか、さほどに長身ではない。
それなりに引き締まった筋肉質の躯つきだが、腹部だけが餓鬼のようにまるく突き出している。
腰布を鎧紐で留めただけのいで立ちで、上半身は裸だが、腕に絡ませた領巾(ひれ)が風を孕んだように頭上で揺れていた。

「きさまに名乗る名などないな。
 剣に力を与える〝闇魔〟だか何だか知らぬが、とんだ淫魔がいたものだ」

「なんだと!」

「淫らがましい行いに淫魔と言ったまで」

「ふん、うぬがとやかく言うことではない。
〝供血〟は鬼族との決事だ。
 直ちに立ち去るなら見逃してやる」

「まったく供血が聞いて呆れる。
妖力を供させるだけなら口を挟むこともないが、きさまがしている所業は見逃せぬ」

「何をしていると言うのだ」

「しらばくれるな、剣に触れた時に総て視えた。
 あれを玩具にしておろう」

「妖力は血から取るよりも精露からの方が負担も少ない」

「ほう〝鬼の長〟の躯を案じてとでも言うつもりなのか、片腹痛い。
 ならばどうして意識を奪う」

「やかましい!」

「剣の力が真に鬼族にとって必要ならば、それがどのような方法であれ、あれは己の躯を惜しんだりせぬ。
 きさまとて分かっておろう。
 相当に歪んではいるが、あれを憎からず想っているらしいからな。
 それを卑劣にも意識を奪ったがために訳の分からぬ滲みを心に残すことになった」

「下等な妖し風情が知ったふうなことを!
 ならばどうする」

「もう、きさまの好きにはさせぬ」

銀花は手にしていた抜き身の愛刀〝號鉄〟を構えた。

刃文が綺羅と(ひかり)を弾いたと同時に銀花の妖気が膨れ上がった。
刹那〝闇魔〟はプロミネンスに焼かれたような錯覚を覚えた。
次の瞬間、驚愕に見開いた眸が捕らえたのは己の胃の腑当たりに深々と突き立てられた刃だった。
そして一拍遅れの悲鳴が零れ出た。

「ぎゃああああ」

そんな叫びなど全く意に介さぬと、にやと嗤った金と銀の眸は冷酷で、なにやら愉しそうに独りごちる。

「ここは良いな。
 しっかり閉じられた空間ゆえ遠慮がいらぬ」

銀花は己の持つ犬妖の力を一瞬なれど全開にしたのだ。
無論それに比例して封印されている力も増大した。

「なっなっなっなんと、その力は・・・御身はもしや・・・ぎやあぁぁ」

捻りを加えられた刃が臓腑を抉る。

「無駄口は叩くな。
 我の言葉に頷くだけでよい」

こくこくこくと言われたとおりにする。

「今からきさまを剣の裡に封印してやる。
 そしてこれより永劫に鬼族に尽くせ。
 無論、不眠不休・飲まず食わずでだ。
 既にたらふく喰ろうたであろう。
 まあ、喰らいたくとも胃の腑は潰れたようだがな」

いやいやをするように首を横に振るが、ぎろりと睨まれて震え上がる。

「剣の裡に封じるとはいえ、きさまの呆れた所行にもかかわらず、あれの傍におれるのだ。
 悦しかろう。
 だがなぁ、その好色な眸は潰しておこう」

「なっななな何と・・・」

「きさまがあれを舐め回すように視る目付きが、いささか(かん)にさわった上に、我は今かなり虫の居所が悪い」

ぷちゅ

なんの躊躇もなく爪を突き立てた。

「ぴぎゃぁぁぁぁ」

「そうだ、念のためもう一つ呪を掛けておこう。
 我はこう見えてなかなか用心深いのだ」

痛みに悶え苦しみながら更なる銀花の言葉におののく。

「まだこの上そんなっ!
 あんまりな!」

ぐりりと刃を捻る。

「ひぎゃあぁぁぁ」

「ああうるさい。あれが(さめ)てしまうだろう」

冷たく美しい相貌はもはや潰れた眸では見る事は出来ないが、かえってその声音と気配から、煉獄のごとき残虐性が視えた気がして、加えられた痛み苦しみよりも恐ろしい。
きっとこの相手は、今は気遣い庇っている〝鬼の長〟であっても、必要とあらば躊躇なく手にかけるだろうし、その血に全身がまみれても眉ひとつ動かさないに違いない。

銀花は己の髪を数本引き抜く。

「きさまがまかり間違って封印から抜け出たり、あれに仇なすそぶりを見せたが最後この呪詛が始動すると思え。
 この我が髪がきさまを内部から溶かし始める。
 安心しろ、死にはしない。
 そして決して表皮を破ることはない。
 ぐずぐずに溶けた臓物・血肉を裡側に囲いながら生きるのだ。
 それはそれは苦しかろうな」

「そのような事をなされずとも〝鬼の長〟に仇なすような真似はいたしません。
 そんな呪詛はご勘弁を」

「そうはいかぬ。
 我はこうみえて疑り深いのだ」

「お慈悲を、どうかお慈悲を賜りたい」

「無いな、そんなものは」

縋る言葉を探して、ただ口を開け閉めしている相手に、さも愉しそうに爪の先で髪を喉の下辺りにずぶりと埋め込んだ。

「ぐえっ」

(ひき)が潰れたようなひと鳴きを残して〝闇魔〟はぐったりとして動かなくなった。
汚れた爪を〝闇魔〟の領巾(ひれ)で拭うと、鬼哭の剣を取り上げ印を結ぶ。
〝闇魔〟は《ひょぉぉぉぉ》という妙な泣き声とともに煙のように刃へと吸い込まれていった。
銀花は愛刀を一振して刃から血糊を払い飛ばした。

 

定まらぬ躯を何とか起こそうとしていた彩扶錏は、優しく暖かいものが頬に触れるのを感じた。
微かに花の香りがする。
香りに覚えはあるのだが、どこで匂ったのかは思い出せない。
頬に触れた暖かいものはすぐに離れていったが、その心地よい感触に寄せていた眉根が緩んでいく。

銀花は、彩扶錏の頬をひと撫でした後、頭の上に両手で弧を描くようにする。
造りだした衣を着せかけ、辛そうな表情が穏やかになり、しだいに安らかな眠りに落ていくのを確認して微笑む。

「ゆっくり眠れ」

 



 

微風に頭上の紅葉がさわさわと揺れる。
木の根元に座り込んだ蒼鉛は深い物思いに沈み込んでいた。

 

初めて逢った時から麒麟の本性は銀花を主だと告げていた。
麒麟は王を選ぶと言うが、実際は麒麟を通して天の意志が王を選ぶのだ。
だが銀花は王ではない。
だとすればあれは本当に天の意志だったのだろうか。
唯の、己の願望だったのではないのだろうか。
事実、西王母は銀花を試した。
それをいとも容易く右眸を差し出して見せてくれた銀花。
麒麟としての主への思慕が何時しか恋情に変わっていた。
いや、初めて逢った時から恋していたのだ。

「この手を迷わず取ってくれたのはあなただった。
 傍にいられるだけで幸せだったのに・・・
 わたしは己の想いに溺れて、半身であるということを忘れかけていた。
 たとえあなたが誰を愛しても、わたしがあなたの一部であることに変わりはない」

それは何かを吹っ切れたというよりも、無理矢理断ち切ったような決意だった。
そして先日、銀花も同じように己の想いを断ち切るようにして〝凍え〟をねじ伏せた。
だが、銀花と蒼鉛の違いは、蒼鉛の想う相手は目の前に在るということだった。

 

まだ、一刻あまりしか経っていないのに、主の不在は永遠に感じられる。
〝號鉄〟の鞘を握りしめ、(かづ)いた衣の袖に貌を埋めるようにして呟く。

「早くお戻り下さい」

月が中天を越えていこうとする頃、その月影を受けて銀に輝く姿が降り立った。
すぐさま駆け寄ろうとする蒼鉛を片手で制するその表情は逆光で判別できない。

「寄るな」

「あっ・・・」

怒りが解けていないのか、帰りを喜ぶ心がたちまちしぼんだ。
すたすたと歩き始めた背中に、距離を保ちながらついて行く。
朱く紅葉したもみじの回廊を進むと、ほどなく小さな崖の下に出た。
岩肌が剥き出しになった狭間から清水が吹き出している。
滝と呼べるほどではないが、降り注ぐ水を十分に浴びることは出来る。
人間の手によるものだろう、水を貯めておくため水底に玉石が敷かれ池が形造られている。

銀花は流れの下で振り仰ぐように貌に水を受け髪を解いた。
さらに纏っていた衣装を消失させて全身隅々まで清水を浴びて穢れを落とす。
片手に携えていた愛刀號鉄も洗い清め、十分に禊すると落水から抜け出て滴る雫を髪の一振りで弾き飛ばした。

月下に立つ水滴の宝石を纏った銀花の裸身は艶麗で、蒼鉛は眸を離すことが出来なかった。

「もうよいぞ」

水から上がってきて手を差し出す銀花に、あわてて借りていた衣を手渡す。
受け取った衣でまず刃を拭って、それから羽織る銀花の髪はまだしとどに濡れていた。
己の袍の袖で髪の水滴を吸い取らせようとする蒼鉛を止めて、銀花は空中から紡ぎ出した綿布で乱暴に髪をかきまぜる。

「そのようになされては美しい髪が絡まってしまいます」

綿布を取り上げて優しく挟むようにして水分を取っていく。
蒼鉛に身を委ねながら銀花はおだやかに話始める。

「なあ蒼鉛、おまえは独り待つのが嫌だと言うが、我もおまえが穢れるのが嫌なのだ。
 おそらく十二国の麒麟の誰よりもおまえは優しく慈悲深い。
 自身を守れる力があるのだから、たとえ妖魔であっても己のために手を汚させたくないのだろう。
 だから使令を持たない、違うか?」

「わたしは・・・」

「民を虐げ悪政を施けば麒麟が病む、か。
 麒麟は王の良心なのだな。
 我にとってもおまえは最後の良心だ」

「あなたが王であったなら、きっと素晴らしい国をお造りになられるでしょう」

「さてそれはどうかな。
 我は存外気が短い上、頭に血が昇り易く我儘で嫉妬深い。
 ともすれば暴走しそうになる」

「銀花様が暴走などありえません。
 あなたは優しすぎるくらい優しいではありませんか」

「おまえはそれを諸刃の剣だと言ったぞ」

「それは・・・」

「その通りだ。
 我は節操のない八方美人なのだな。
 殺にも似たようなことを言われた」

「あなたは・・・寂しがり屋なのです。
 優しい寂しがり屋です」

「かもな。
 だが、優しくはない。
 現に彩扶錏にした所行は蛇の生殺しの如くだったろう」

銀花は〝闇魔〟を断罪したが、己の方が(たち)が悪いなと苦笑する。

「あれは・・・しかたなかったことです。
 あなたに咎はない」

「はは、それは贔屓に過ぎるな」

「いいのです。
 わたしはあなたの麒麟なのですから」

「まあ、己を保つにはああするしかなかった。
 我が暴走してしまったら、破壊のかぎりをつくすだろう。
 それを止められるのは唯ひとり、父上だけだったのだ。
 だが蒼鉛、今はおまえが我を止めることが出来る」

蒼鉛の命が尽きれば銀花の命も尽きる。
銀花の命が尽きれば蒼鉛の命も尽きる。
だが、銀花が死に瀕した時、自ら命を絶つことで蒼鉛の命を繋げられる。
が、その反対はない。
自らであろうが、他者によってであろうが、蒼鉛の命が絶えれば銀花の命も絶える。
唯、蒼鉛の命の灯火が消え失せる前に、銀花がその手で消し去れば、銀花は命を永らえられるが、蒼鉛が己で命を絶つならばその限りではない。
故に蒼鉛は己の命で以て確実に銀花の暴走を止められるのだ。

「わたしはあなたの暴走を止める楔なのですか」

「そうだ」

「けれど暴走するとはどういうことなのですか?
 封印されている力が解放されたとしても銀花様に変わりはないでしょう?」

「そう・・だな。
 怖れるのは禍つ力ではない。
 恐怖すべきは己自身の裡の闇だ。
 人間であれ妖しであれ誰もが裡に闇を潜ませているが、どうやら我の闇は深い」

「わたしにもあります。
 嫉妬、欲望、他にもいろいろ・・・仁の獣とは名ばかりです」

「それでいいのだ。
 だがおまえにはそれに打ち勝つ慈悲の心がある。
 だが、我は危うい」

麒麟は王の良心。
王が民を虐げれば麒麟は病みついには命を落とす。
麒麟が命を落とせば王の命も尽きる。
だが、麒麟はどのようなことになっても王を嫌うことなど出来ない。
暴虐を行う王に対して、慈悲の獣の本姓と相反する王を慕う本姓の狭間で苦しみ病み、命を落とすのだ。

王でない銀花が暴虐を尽くしても、蒼鉛は病んで命を落とすことはない。
けれど、永遠に主の暴虐を見続けることになる。
果たしてどちらの麒麟が苦しいのかを比べること、自国の民を虐げるのと、辺り構わず暴虐を尽くすのとでは、どちらがより罪深いのかを量ることは無意味だ。

「今はなんとか己の闇を飼い馴らしているが、飲み込まれそうになることがある。
 だから彩扶錏に力を借りた。
 けれど、何時かどうにもならなくなったとしたら・・・
 考えてもみろ、そうなったらちょっと恐いぞ。
 なにせとんでもない妖力と禍つ力まで持っているのだからな」

冗談めかした物言いであったが、振り向いた銀花の眸は真摯に耀く。

「おまえは我の最後の砦、何より大切な楔だ」

「はい」

「その時は躊躇してくれるなよ」

「・・・わたしは・・できない・・・」

比べることは無意味ではあるが、
否応なしに病んで逝くのと、自らの選択で主の命を終わらせるのとでは・・・・

「出来るさ。
 それが我の望みなら叶えなければいけない。
 誓約してくれただろう?」

「は・・い・・」

「そうなっても苦しむことはない。
 永遠にその手を離すことはないのだから」

「は・・い」

「殺にも彩扶錏にも誰にも代わりは出来ぬ」

「はい」

「常に魂は半身であるおまえの傍にあるのだから、離れていても独り待たされていたとしても寂しく思うことはない」

「はい」

「おまえが我の名を呼べば、どこにいようと聞こえる。
 世界の果てからでも駆けつける」

「はい」

「だからつまらぬことを気にするな」

「はい」

 

何時かどうしようもなくなったなら、抱き締めて愛していると言うよりも、その命で以て(あや)めてくれ、共に朽ち果ててくれという銀花の言葉は、蒼鉛の心を甘い戦慄で震わせた。

けれどそんな日が来ることを望みはしない。
だから今はただ強く優しく抱き締める。

空に高く耀く月だけがふたりを見詰めていた。

 



 

中天の月景と篝火の中、ゆらりと具現する姿に阿弖流為は逸速(いちはや)く反応して径路を舞台へと急ぐ。

「お館様、ご無事で在られます・・・か」

阿弖流為が彩扶錏に仕えるようになって久しい。
そして〝供血の儀式〟直後の主の貌を何度も見てきた。
誇り高く秀麗なその貌に一瞬だが矜持が傷ついたような陰りが浮かぶのをこの寵臣だけが気付いていた。

だが今、彩扶錏の貌は陰りどころか一点の曇りもない今宵の月のように清雅であった。

「阿弖流為、供血の儀式は今宵限りだ」

「どうゆうことでございますか?」

「もう妖力を供さずとも剣の力が失せることはない。
〝闇魔〟は未来永劫に剣の裡に留どまり力を与えてくれる」

「なんと、それは喜ばしいことでございますが、何故そのような次第に」

「実のところわたしにもよくわからん。
 が、我らはもう十二分に対価を支払ったということなのだろう」

「はぁ」

古から剣に力を与えてきた〝闇魔〟の正体は分からない。
だが百の鬼の血を差し出せと要求した〝闇魔〟が、突然それを覆すことなどあるだろうか。
まして代償無しに永久に力を提供するなど、まるで恐ろしい何かに脅かされでもしたようではないか。
と、そこまで考えて阿弖流為は己の疑り深さに溜息をついた。

子細などどうでもよいことだ。
前を行く主の麗しい横貌が〝供血の儀式〟で陰ることはもう無いのだ。
それこそが最も重要なことなのだった。

 

「お館様、頬をどうかなされましたか」

「いや、何故だ?」

「先程から何度も頬に手をやっておられますゆえ」

「そうなのか、気付かなかったが」

 

立ち止まった彩扶錏は、空高く耀く望月を見上げる。
そしてまた無意識に頬に触れるのだった。

 

第二一話 供血 終話 おわり