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ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを、白く長い指の掌でそっと受ける。
名工の手により白大理石から創られたような美しい貌。
長くさらりと背に流された蒼味がかった闇色の髪が、今は月明かりを受けて蒼銀に輝く。
貌を上げ、天空で銀に輝く月に向かって微かに囁いた。
「銀花様・・」
掌の花びらを小さい溜息が揺らす。
主はまだ戻らない。
主の命は小さき者共を守ること。
人間の幼子と小妖は何も知らずに眠っている。
《早くお戻り下さい》
黒麒麟はもう一つ小さな溜息を落とした。
「これはどうしたこと!麒麟の
蓬山の女仙の長、
今、待つべきは才国の麒麟。
現在、麒麟が不在なのは才国のみである。
いったいこの二つ目の卵果は何に属する麒麟なのか。
見事に孵った才国の麒麟は、濃い金色の鬣を靡かせて、多くの女仙に
けれど、もうひとつの麒麟の卵果は未だ孵らず。
采麒が獣形から人型に変異出来るようになった頃、蓬山には立入ることが出来ないはずの妖魔が麒麟を喰らおうと飛来した。
女仙達は、幼き采麒を守ることに精一杯で、未だ孵らぬ卵果は捨て置くしかなかった。
妖魔はそれを見てとり、卵果を爪に掻けようとした。
刹那、青白い閃光が周りを包む。
閃光が収まった後には、妖魔の残骸とその血の海の中に三歳くらいの幼子が立っていた。
驚く女仙達に、血で汚れたままの貌を向けて僅かに不快そうに眸を瞬くその姿は、妖魔の血と対照的な白大理石の肌。
そして、蒼味がかった闇色の髪であった。
「なんと、己で妖魔を滅せられたか。
血に病む気配もそれほどなく、人型で生まれ既に額の角もある様子、いったいこれはどうしたこと。
その上稀なる黒麒であられる」
麒麟とは慈悲の瑞獣。
霊力は甚大なれど血や怨念に病む。
それ故、自ら殺生すること適わず、他の妖魔を使令に下し使役する。
一国に一麒麟、そしてその国の王たる者を見出し共に国を治める。
だが今は麒麟の在らない国は無い。
ことごとく天の理を外れた麒麟。
《異形・・・か》
碧霞玄君は大きく溜息をついた。
どこにも属さぬ黒麒麟であっても麒麟は尊きもの。
蓬山の主、西王母は、
「蓬山の麒麟とせよ」
とおっしゃった。
ならばと女仙達はかいがいしく世話をする。
気性も素直でお可愛らしい。
だがしかし、眼に残る血塗られた姿の光景がほんの少しだけ畏怖という壁をつくる。
その壁を小さな黒麒は鋭く感じ取っていた。
世界の中心、五山の東岳蓬山の麓、連なる奇岩のひとつに、長く伸びた蒼味がかった闇色の髪を、風に靡かせて立つ長身の青年の姿があった。
髪と同じ色の憂いを帯びた眸で何を想う。
《わたしは何者、主も持てず、留まることも進むことも出来ない・・・》
いつ如何なる時も主の傍に在るを至上の喜びとする。
それが何より優先される麒麟の本性。
麒麟は十代半ばから二十代半ばで成獣する。
成獣した後は齢をとらないが、主を見いだせない、半身のない麒麟は夭折する。
だが黒麒麟は王を見いだすどころか国を持たない麒麟だが、すでに十二分に齢を経ていた。
《天はわたしを何のためにお創りになったのだろう・・・》
黒麒麟はふと何かの気配を感じた。
悲しくはないのに何故だか涙が出るような、敢えて喩えるなら、美しすぎる月を見て胸が締め付けられるような感じだろうか。
そろそろ戻ろうとした矢先、暗い影が頭上を覆った。
先に感じた気配とは違う邪悪な気配。
飛竜に属する妖魔が鋭い牙を向けてくる。
煩わしき物を、長く美しい形の指の左手で払いのけるような仕草に眼の眩むような青白い閃光が瞬く。
空中からどさりと落下して、腸を抉られた妖魔の断末魔が響いた。
「見事なものだな」
その声に振向くと、見知った姿が立っていた。
「
五山を取囲む妖魔妖獣が跋扈する広大な荒地は黄海と呼ばれる。
その黄海を行く者を守護する天仙〝犬狼真君〟が、いつもどおりの笑顔を向けてきた。
「黒麒、お元気そうでなにより。
今日はあなたに逢いたいという者を連れてきたのだよ」
「わたしに?」
「と、言うよりも〝麒麟〟にかな・・・・・銀花」
呼ばれた者が岩陰から現れた。
その姿と気配に黒麒麟の呼吸が止まった。
輝く月のような銀の気配。
先ほどの気配はこれだったのだ。
そして黒麒麟は確信した。
これが〝王気〟なのだと。
鼓動が恐ろしいほど速くなり、息苦しいような思いで主と確信した者の一声を待った。
「
黒麒麟の躯がぐらりと揺れた。
その黒麒麟の様子に犬狼真君は堪え切れなくて吹き出した。
「ぷっくくくく。
銀花、かれは極めて稀なる黒麒麟なんだよ」
爽やかに笑い声を立てながらそう言う。
「黒?なぁんだ、残念」
悪びれることもなく言いやる美しきその姿に、
「申し訳ございません」
と、黒麒麟は訳も分からず謝っていた。
なにがそんなに可笑しいのか、犬狼真君はますます愉快そうに笑っている。
主と確信する者の期待を裏切ったらしいことが、何故だかとても悲しくて黒麒麟は己の姿を悔やんでいた。
「お帰りになるのですか」
「ああ、そろそろな。
我が父が亡くなられたことを知って早、数十年余り。
あちらではもっと経っていよう。
弟のことも気になるのでな」
「・・弟君がおわしますのか・・」
「うむ、殺生丸といってな、何時も我の後をついてまわっていた。《離れたくない、付いて行きたい・・・
一度も口にしたことは無いけれどあなたは確かにわたしの主なのです。
あなたと過ごしたこの年月がどんなに大切であったか》
沈みこむ様子の黒麒麟の髪をふわりと撫でる。
「どうした、そんな貌をするな。
まるで別れた時の殺生丸と同じ貌だ」
《あなたがわたしの髪に触れるたび、わたしがどんなに幸せか、きっとあなたは知らないのでしょうね・・・》
「・・・殺・・どうしているだろう・・・」
遠くを見つめる眸に、黒麒は寂しさが募った。
「そうだおまえ、我と一緒に来るか?」
「わたしをお連れ頂けるのですか」
まさかの言葉に喜びが溢れそうになる。
銀花は後ろで眺めていた
「
この世界で〝犬狼真君〟を〝更夜〟と呼べるのは片手に満たないだろう。
真君は銀花がそう呼ぶのを何時も心地よさげにしている。
けれど今は硬い表情だった。
「以前、麒麟と王の理をおしえただろう。
本当にそうするつもりなのか?
それは取りも直さず、黒麒を命を分かつ己の半身として、生涯を共にすると言うことなのだよ」
麒麟は王を見出し、そして共に国を治める。
王が国を
麒麟が死すれば王も死ぬ。
「銀花は王ではない。まして人間でもないが、天の理は形を変えてその躯に掛かってこよう。
それがどのようなことであれ、命に関わることに違いないだろう」
「そうか、ならば我の命を黒麒に預けよう。それで良いか黒麒」
銀花は、こともなげに言い放つ。
「あなたのお傍に居られることだけが望みです。ですが・・・」
黒麒麟は不安そうに、犬狼真君を振り返った。
「本当にそうできるでしょうか。天はお許しになるでしょうか、真君」
その時、銀花を見つめている真君の眸に、僅かに悲しみが過ったことに黒麒麟は気付いた。
蓬山の主、西王母がお許しになれば叶うかもしれないという犬狼真君の言葉に、銀花達は蓬山に出向いた。
西王母は抑揚のない声で聞いた。
「妖しのおまえが麒麟をほしいと申すのか」
「そうだ」
「何故に、麒麟がほしいのか」
「あれは我の麒麟らしいからだ」
「ほう、おまえの麒麟な。
黒麒、この妖しに付いて徃きたいと申すのか」
「はい、西王母様。
この方は確かにわたしの主なのです。
わたしは天の理から外れた麒麟ですが、それでも天はわたしに主を下されたのだと信じます」
「王と麒麟の理を真君から聞き知っていよう、妖し。
おまえは王ではない。が、それでも確かに理は存在する。
黒麒が死すれば主となったおまえも死ぬ。
そして、主のおまえが死すれば黒麒も死ぬこととなる。
それがおまえたちの理なのだ。
妖しであるおまえには常に血生臭い戦いが付いて回る。
黒麒には他の麒麟に無い血の耐性があるとはいえ、やはり病むには違いない。
さらにその宿星によって、おまえはいずれ熾烈を極める争いに躯を投じることとなるのは分かっていよう。
どうだ、それでも黒麒を連れて徃くか?」
西王母の言葉に銀花は黒麒を見た。
その眸の色を読み取って微かに微笑う。
「連れて徃く。
黒麒の命も我が命もあたら容易く散らせはしない」
「ほう、ならばひとつ教えておいてやろう。
黒麒が死に瀕した時、おまえの手で死出の旅路に送り出してやるがいい。さすればおまえの命を贖えよう。
おまえが死に瀕した時、命の灯火が消える前に己が手で始末をつけよ。さすれば黒麒の命を贖えよう」
「なるほど、それを聞いて安堵した」
「銀の妖しよ、ならば黒麒を連れて往くがいい。
ただし、代償がいる。
その美しき金色の右眸を於いて行け」
「なんと!!」
驚いたのは、黒麒麟と犬狼真君。
妖魔・妖獣・妖怪が跋扈する世界である。
片目を失うことは生死に拘わる。
だが、当の銀花は意にも介さなかった。
「そんな物でよいのか!」
言うが早いか自身の爪で右の眸を抉ろうとする。
「まちゃれ」
西王母はそう言うと、人差し指を銀花の右眸にひたと据えた。
すると、右眸から金色の珠が引出されて掌の上に転がった。
後にはこれまで以上に美しい銀の眸が耀よっているばかりであった。
けれどそれはもう何物をも映すことはない。
黒麒麟は跪き、恭しく銀花の足に額を当てる。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」
「許す」
そして己の麒麟となった黒麒の頭をやさしく撫でた。
満足そうに見やっていた西王母は言い放つ。
「さあ、どこえなりと徃くがよかろう」
銀花は人型のままでは飛翔できぬ黒麒麟の腕を取り、ふわりと宙に浮かび上がった。
「銀妖、その躯が露と消えて無くなる日まで、決してその手を離すでないぞ」
「もとより言われるまでも無い」
そして何も言わずに立っている犬狼真君に
《世話になった》
と、笑いかけた。
小さくなって行く姿を見送っている真君に、西王母が何かを投げて寄越した。
受け取ったそれは、金色の珠。
「あの妖しを想い浮かべる
そして、いつの日かまた巡り逢うこと叶ったら、真君あなたが還してやるがよい」
《西王母、貴女様には敵いません》と、犬狼真君は自嘲気味に笑う。
「鮮やかな妖しであったな。
己の眸を差し出すに一瞬の躊躇もせなんだか」
「あれはそういうものです、西王母」
天仙である躯の、永劫の生の中を疾風のごとく通り抜けた鮮やかなる妖し。
晴空に再びの邂逅を願う犬狼真君であった。
黒麒麟は愛しき気配に物思いから覚めた。
見上げると月明かりを受けて、夜空に銀の影が二つ近づいてくる。
ひとつは待ち侘びた己の主のものである。
黒麒麟の満面に浮かんだ喜色が月景にさらに輝く。
《わたしは黒麒麟、
あなたが名付けてくだされた・・・蒼鉛の在るところ必ず銀があるのだと》