第十二話 甘く危険な夜

 

目の前に、霧が立ちこめていて、行く手を阻んでいる。
己の鼻先すらわからぬほどの濃い霧であった。

おぼつかない足取りで進んで行くと、遠くにぼんやり灯が見えた。
手足がだるく、早くあの灯の処まで行き着きたいのに、気ばかり焦って思うにまかせない。
それでも何とか進んで行くと、辺りが徐々に明るくなってくる。
それで彩扶錏は、己が何ひとつ躯に纏っていないことに気が付いた。

心許ない思いで周囲を見回すと、そこは、沼のほとりのようであった。
怪しい気配が漂っている沼を見つめていると、真ん中辺りが、ぼこぼこと泡立ちはじめた。
厭な予感が頭をもたげる。
逃げろと頭の中で半鐘が鳴り響いているが、どうしても目を離すことも足を動かすことも出来ない。
瞬く間に水面が持ち上がり、そこから顕れたのは、何百匹もの蛇とも蚯蚓とも見える、蠢く触手だった。
それが複雑に絡まり合って、ひとつの巨大な躯を形成し始めると、その中心がざわざわとふたつに分かれ、白い貌が浮かび上がった。
それは違えようもない〝蛟の媛〟の貌であった。

彩扶錏を見つけると、にたりと嗤い、幾筋もの触手を、にゅちゃにゅちゃと延ばしてくる。
心の臓が、喉元に迫り上がってくるのを抑え込み、遁走するべく足を動かそうとするが、まるで根が生えたように動いてくれない。
下を見やると、地中からも触手伸びて、がっちりと彩扶錏の足を掴んでいた。
足を這い上がった淫らに蠢く触手が、今にも彩扶錏の中心に絡みつこうとしている。

「うわあぁぁぁぁ」

 

彩扶錏は、己で発した悲鳴で目が覚めた。

眼に入ってきたのは、灯火に照らされた天井だった。
まだ、心臓が早鐘のように鼓動しているが、悪夢から醒めたことに、彩扶錏は安堵の吐息を吐いた。

「目が覚めたか?」

声の方に視線を巡らすと、銀花が夜着姿で、縁との境の柱に、背中を預けて座っていた。
片膝を立て、右手の肘を膝に付いている。
その掌に顎を乗せて、面白そうに彩扶錏を観ていた。

「随分うなされていたぞ。
 なんぞ、悪い夢でも見たか?」

彩扶錏は起き上がろうとして、己が夢の中と同様に、一糸纏わぬ姿で褥に寝かされていたことに気付いた。
かろうじて薄物の単衣が股間を隠していたが、起き上がろうとしたため、ずり落ちてしまった。

「うわっ・・・っ」

慌てて覆い隠すと、銀花は〝にぃ〟と嗤う。

「今更、恥ずかしがっても詮無いことだ」

「ぎっ銀花、それはどういう意味ですか?」

「ふふん おまえは、なかなか良い味だったと言っておこう」

「なっっ、わたしが眠っている間に、何かしたのですか・・・」

情けない声を出して、彩扶錏は黙りこんだ。

「おまえは、同じ事を我に、しようとしたではないか」

「そうですが・・・あなたがそんな事を・・わたし・・何も覚えていません・・・」

「なんだ、傷ついたのか?
 少しは己のしようとした、浅はかな行為の破廉恥さを、思い知っただろう」

銀花は、茫然自失の彩扶錏に、少々、灸が効き過ぎたかと、少し可哀想に思い始めた。

「何も覚えていないし、何の感覚も残っていない・・・」

彩扶錏は、ほとんど涙声で呟いている。
幾多の浮き名を流していたが、意外に純なところもあるのかもしれない。

「千載一遇の機会でしたのに、わたしとしたことが何も覚えていない上に、何の余韻も残っていないなんて、不覚
 です。
 何ともったいない!」

「そっちか―――!」

銀花は酷い頭痛に堪えるように、頭を抱えた。

「阿呆っ 月の位置をよく見てみろ!
 おまえが気を失ってから、どれほども経っておらん!
 そんな短い間にどうこう出来んわ!」

「では、何もしてないのですか?!」

「するわけがない!」

「わたしの躯を弄んでいない?」

「当然だ!」

「でも、わたしは裸ですよ。
 衣を脱がせたのはあなたではないのですか?」

「確かにそうだが、何も見ておらん!」

「本当に?」

「何だ、信用しないのか?」

「ですが、不可能でしょう、それは!」

「まあ、少しは見えたかもしれぬが」

「それで、何も感じなかったのですか?
 こう、むらむらとしませんでしたか?」

「するか!?」

「わたしの裸身が、あなたに何の感銘も与えなかったなんて・・・
 今まで培ってきた自信が、がらがらと音を発てて崩れていきます」

「はぁ?何を培ってきたんだ」

「わたしの躯には魅力が無いのですね」

「あのなぁ、何か倒錯した会話になってきたぞ」

すっかり消沈してしまった彩扶錏は、どこか子供じみて見えた。

「そんなにしょげ返ることか?
 おまえは十分に綺麗で魅力的だよ」

灯火に優しく縁取られた銀花の貌に、息を詰める。
昔から、飾らぬ言葉、その態度に驚かされ、心奪われてきた。
永い年月を隔てて、少し変わってしまったように思ったが、やはり銀花は銀花で、彩扶錏の心をいつでも易々と捕らえてしまう。
そして突然、頬に朱が差して柄にも無く慌てるのだった。

「そっそそそそそんなっ、慰めてくれなくていいです」

「別に慰めてなどおらん」

「しかし、ちょっと焦ってしまいましたよ。
 いくら眩惑香に酔って眠っていたからといって、まったく余韻も残滓も残ってないなんて・・・
 わたしはまた、おまえがどうにかなってしまったのかと、心配しましたよ」

「きさま、どこにしゃべりかけている!」

股間に話しかけながら、彩扶錏は、子猫をあやすように、薄物の上からやさしく撫でさすっている。

「やはり夢見が悪かったせいか、元気がありませんね・・・・おおっ 復活してきました。
 それでこそです。
 では銀花、改めてお相手致しましょう」

「莫迦たれ、せんでいい!
 言ったであろう、仔を成す力も封印してあると」

「仔を成すためにではないです。
 愛を交わすためです」

「げっ!」

一気に間を縮めてくるのを躱せなかったのは、起立する彩扶錏のそれをもろに見てしまったからだった。
腕力のみなら比べるべくもなく、気付けば、組み敷かれる形になっていた。
直ぐに妖力で跳ね返そうとした銀花は、彩扶錏の眸と言葉に思わず躊躇してしまった。

「愛しています」

その眸には、先程のふざけた色は微塵もなく、言葉はまるで祈りのように聞こえたからだ。

「彩扶錏・・・」

「好い匂いだ」

夜着一枚の銀花からは優しい匂いがしていた。
唇と首筋のどちらから先に口付けようか、楽しい選択の後、首筋に決めると、ゆっくりと唇を近づける。

がごんっ

恐ろしい形相で、手に高灯台を握り締めた蒼鉛が立っていた。
その高灯台は、分厚く金で象嵌されていて、かなりの強度があった。

「・・・それで思いきり殴ったら、さすがに後々、頭に支障が出ぬか?」

「すでに相当おかしいのですから、今更どうと言うこともありますまい」

銀花は、ばったりとうつ伏せに倒れている彩扶錏に、落ちていた薄物を着せ掛けてやる。

「銀花様、甘い貌は禁物です。
 優しくすれば付け上がるだけなのです。
 これの始末はわたしが致します故、あちらへ非難していて下さい」

「は・・い。
 よろしくたのむ」

剣呑な気配の蒼鉛に、おそるおそる言い足す。

「あまり無体なことは・・・」

「はははは、いやだなぁ銀花様。
 わたしは仁獣ですよ、慈悲の霊獣です。
  気が付かれたら丁重にお引き取りいただくだけですよ」

「ははは、そうだったな」

己が半身は、慈悲の獣であることを失念させる、極端な目つきをすることがあった。

 



 

闇の静寂のなかに、灯火の造りだす柔らかな(ひかり)が揺らめいている。
その景をさらに彩っているのは、万華鏡のように妖しく変化する切れぎれの喘ぎであった。

「あっ・・・っんくっ・・・・やっ・・もうっ・・・・・はぁぁ・・」

銀の毛皮の褥に横たわった殺生丸は、隻腕を頭上に、絹の縛めで捕らえられていた。
衣の前を大きくはだけられ、のけぞる象牙の首筋に薄っすらと汗が浮かんでいる。

やわらかなものが耳朶をくすぐる。
逃れようと貌をそむけても、執拗にそれは追いかけてきた。

「んっ・・・あぁ・・・」

耳朶を存分に(なぶ)った後、それは顎から胸へと下りていく。
鎖骨の窪みでしばらく留まった後、狙いを定めたように、無防備に露わにされている右の胸の蕾をめざす。

「あっあっ・・んぁっ・・・」

敏感な部分へのいたぶりに、殺生丸の躯がびくりと跳ねた。

「っうっ・・・」

さらにそれは腹をなぞり、臍をくすぐる。

「やっ・・・いや・・だ・・・・」

殺生丸の目尻に微かに涙が滲む。

「がまんせずに声を上げよ!辛いだけだぞ」

臍を嬲っていたものはとって返して、脇をくすぐった。

「ぶっわはっはははっ ぐっふ・・げほっ・・けほっ・・・
 あっ姉上は、わたしを笑い死にさせるおつもりか!」

「まさかな、知っておろう?
 我がおまえに手をあげられぬ事を」

銀花は、さっきまで殺生丸を嬲っていた、えのころ草を己の貌の前で揺らせてみせた。
銀花は昔から、殺生丸に手をあげることが出来なかった。
言いつけを守らず、それによって殺生丸自身が、生命の危険に晒されることになっても、口ではどんなに叱っても、手をあげることは出来なかった。
それで、仕置きにはいつも、えのころ草でくすぐる事にしていたのだ。

「彩扶錏だけならともかく、おまえまでが夜這いとは、呆れたものだ」

殺生丸は、横を向いて視線を外した。

「存外、おまえ達は似ているのかもしれんな」

「なっ! 恐ろしいことをおっしゃいますな!
 あんな輩に似ているなど・・たまらない」

「そう言うな。
  曲がりなりにも〝鬼族の長〟あれはあれで良いところもある」

「本気でおっしゃっているのですか?」

「まぁな、なにせ一度は許嫁であったことだし」

殺生丸は眉を顰めて言った。

「父上のなされる事には分からぬ事も多かったが、中でも一時とはいえ、あやつを姉上の許嫁になされた事は理解
 に苦しむ」

「あれは風狂に見えるが、妖力も強くなかなかに優しいのだ。
  彩扶錏が本気を出せば、今、日ノ本に敵うものはいまい」

「姉上は、わたしがあやつに敵わぬとお思いなのか!」

「今は、だ。
 彩扶錏も無駄に百年の齢を重ねてはいないと言うことだ」

「・・・姉上は、あのまま和睦が続けば、あれに嫁がれるつもりだったのですか?」

「父上がお決めになった事だ、是非もない」

あいまいな笑みを浮かべながら、
《もし、あれを聞かなかったら、彩扶錏かあるいは違う誰かに嫁ぎ仔を成して、今の己とは違う日々を送っていたかも知れないな》
と、銀花は思った。

「姉上、父上はその二度目の封印を、よく承諾なさいましたな」

「我が無理にお願いしたのだ。
  拒まれる父上に、是非にとお願いした」

それきり銀花は、黙り込んでしまった。

夜着一枚で片膝を立て、物思いに沈んでいる銀花の貌を、灯火が柔らかく照らしている。
哀しみか、寂しさか、はたまた怒りを堪えているかのような深い表情。
それは、銀花が旅立ってから、時折独りで縁に佇んでいた、父の貌と同じだった。

「我は酷い娘であったよなぁ」

「姉上?・・」

「生涯、仔は成さんと言ったのだ。
 それは、父上と母上を真っ向から否定したようなものだろう」

「・・・」

「あの時の父上のお心は、如何ばかりであったろうか?
 もう、どのようにしても知る術も、謝る術もないな・・・」

そう言うと、銀花は殺生丸の側に、ごろんと横になった。
ほどなくして、銀花の寝息が聞こえ始めると、殺生丸は頭を巡らせ手首の縛めを見つめた。
すると、さらりと絹の縛めは解け落ちる。
きつく絡められていたにも拘わらず、手首には跡ひとつ付いていない。

起き上がって、眠りのじゃまをせぬように、そっと銀花の頭をあぐらの膝に抱え込む。
貌に掛かっていた、己と同じ銀糸の髪を払ってやる。

覗いた貌は驚くほどあどけなかった。
常は父によく似た、きりりとした麗姿が、今はほんの幼子のようで頼りなく、哀しいほどに儚く見えた。

殺生丸は、手触りの良い髪に指を絡めた。
僅かに銀花が身動ぐと、首筋を隠していた髪がはらりと流れ、白磁の肌が覗く。
殺生丸は、痛みを堪えるように瞼を閉じた。
そして、自ら自由を奪うように、更に深く指を髪に絡めた。

《そんな寝顔を見せないでください。わたしは己が抑えられなくなる》

殺生丸は初めて己が隻腕をよろこんだ。
なんとか右手は戒めたものの、更に左手があったなら、その手指が不埒な動きをするのを止める自信がなかった。

 

第十二話 甘く危険な夜 おわり