第八話 悪 夢

 

「お館様、お召しにより参上いたしました」

「ああ、夜分にすまぬ小角(おづぬ)の爺。
 少し聞きたい事があってな」

「何でございましょうや」

「爺、単刀直入に聞く。
 禍つ神とはいったい何なのだ。
 よもや本当に『神』などと言う物ではあるまい」

小角は、やれやれという貌で主を見詰めた。

「又〝犬の媛〟のことでございますか。
 移り気なお館様にしてはいやに熱心でございますな。
  その熱心さを今少し、(まつりごと)に向け直していただければ有り難い事でございますが」

彩扶錏は、よほどのことが無いかぎり、ほぼ毎日〝長〟としての責務を果たすために鞍馬の本殿に出向く。
だが、ここ最近は頻繁に東国へ出掛けるために、本殿に行きはするが、早々に退出したり又は遅くに出たり、果ては空けることさえあった。
無論、彩扶錏が数日居なくてもどうこうなることはないが〝長〟の決済が必要なことも多くあり、細々としたことが滞りがちになっていた。
所帯が大きくなればなるほど、つまらぬ問題も増えるが、頂点では些細なことでも、末端では大きな問題になることもある。
彩扶錏は、小角の物言いに気分を害したが、その自覚があるので反論も出来ず、尤もらしい言葉を付け加えた。

「まあそういうな。
 無論銀花の事もあるが、一族を()べる立場として、災いとなるかもしれん事柄は知っておくほうがよかろう」

言い訳がましい主の言葉に、小角は慇懃(いんぎん)に答えた。

「それは良いお心がけでございますな。
 お館様の肩には一族郎党の命運が懸かっております。
 いいえ、鬼族の庇護を頼り〝亨〟に移り住んで来た妖し総ての行く末をも担っておいでと言っても過言ではござ
 いませぬ。
 お館様がくしゃみをすれば、底辺のものは肺の病で命を落とすこともあるのです。
 真に皆のことを思うならば、危ういものには近付かぬが肝要」

「分かっておる、だからこうして尋ねているのだ」

「本当にお分かりなのか甚だ怪しいものでございますな。
 しばしばお忍びでお出掛けのご様子ですが、ひょっとしてまだ情も通じておられぬのか?
 なればいっそ早く通じてしまわれれば、熱も冷めるというものでしょう。
 なにをぐずぐずなされているのです。
 それとも、お館様ともあろう方が、よもや相手にされていない、などと言うことではありますまいな」

「爺、いい加減に嫌味はやめよ。
 さっさと知っている事を話すがよい」

流石にこれ以上は本気で機嫌を損ねると、小角は嘆息をひとつを吐いて話し始めた。

「はい。
 けれど殆ど何もお教え出来るような事は無いのです。
 禍つ神は禁忌なのでございます。
 その言葉さえ使うのを(はばか)られる。
 そう、今ではその恐ろしさを真に知るものとて居りますまい。
 この爺とて実際には存じません。
 ただ、代々伝わってきたのです。
 決して触れてはならぬ、関わってはならぬ『禍々しきもの』だと」

「なんだと!
 それではまるで唯の迷信、子供騙しのようなものではないか」

馬鹿馬鹿しい話だと、あきれる彩扶錏の貌とは裏腹に、小角の顔色はだんだん悪くなってくる。

「お館様、迷信ではございません。
 何度も申し上げます通り〝犬の媛〟の力は封印されてはおりますが、現に存在しております」

確かに銀花の妖力は強いし、かいま見たあの力は異質なものであった。
だが〝犬の長〟亡き今、真実を知っているのは銀花本人だけだ。

「爺、血の濃いもの同士の間には、時として強い妖力をもつ子が生まれる。
 銀花の場合も単にそういう事ではないのか?
 悲しい事だがその力ゆえ、母君を死に至らしめてしまった。
 それが全てではないのか」

「さにあらず。
 お館様ぐらいの齢のものには、もうあまり感じぬのかもしれませぬな。
 が、儂らのように、齢を重ねたものにとって、実際見たことがなくとも『禍つ神』という言葉は怖ろしいのです。
 こう首の後ろあたりがざわつくような、なにやら不安になる響きがあるのです。
 代々伝わって来たと申し上げましたが、正しくは身の内に刷り込まれた忌まわしい遠い記憶のようなものです」

小角の貌は、いよいよ色を無くし、額に冷たい汗を浮かべていた。

「お館様、爺の末期(まつご)の願いとおぼし召されて、もうその事はお考えなさいませんよう、
 〝犬の媛〟にはもう関わられませんようお願い申し上げます」

「わかった、わかったからもう帰って休め。
 本当に具合が悪そうだ、何なら後で薬師を使わそう」

「いえ、大事ございません、少し休めばすぐ直りましょう」

「そうか。
 だが爺も齢なのだから躯に気を付けよ」

「・・・・おいとま致します」

部屋を辞する折、礼を取ろうと小角が振り返ると、彩扶錏は露台に出て月を仰ぎ見ていた。
《お館様は月がお好きでいらっしゃる。月はあの媛に似ておりますな・・・》
小角は以前見た銀花を思い出していた。
そして小角には分かっていた。
いくら苦言を呈しても彩扶錏が銀花を思い切ることはない。
気ままで、移り気なようでいて、こうと思ったことはけっして譲らない。
なにせ生まれた時から見守って来たのである。

「お館様、爺はお役に立てませなんだが、遥かな古の史実を知悉(ちしつ)しておられるであろうお方を存じております。
 禁忌であろうとお館様の願いならば、お話し下さるやもしれません。
 無論、何ぞ見返りが必要かもしれませんが」

「そうか、褒美なら何なりと好きなものを与えよう。
 して、それは誰ぞ」

期待に輝く主の貌を、小角は幾分意地の悪い目つきで見上げた。

「〝蛟の媛〟にございます」

彩扶錏の瞳孔が窄まり、あらぬ空間を捉えている。
それは、自我が現実逃避しそうになったのを力技で引き戻していたためであった。

「・・・爺、今何と申した、聞き違えだと思うが」

「〝蛟の媛〟と」

「な ん だ と!」

「ですから、〝蛟の媛〟」

「聞き返したわけではない!
 よいか!
 それこそがわたしにとって禁忌なのだ。
 一度ならず二度までも、いや三度か。
 再びその〝み〟のつく言葉を使ったら、その口を縫付けて二度と開かぬようにするぞ!」

激した彩扶錏は、居丈高に叫んだが、その肩は僅かに震えていた。
いくら見目厭わしい一族と言えど、何もそこまで厭わずともよいのにと小角は苦笑した。
取乱したばつの悪さから、彩扶錏はひとつ咳払いをした後、取り繕うように言う。

「他には、その、それ以外に詳しいものは居ないのか?」

「はい。
 後は、み・・・」

じろりと彩扶錏が睨みつけた。

「み・・・なんだ」

小角は可笑しさを噛み殺しながら言った。

「み な 爺と似たり寄ったりでございます」

彩扶錏は鼻から大きく息を吐き、ぐったりと露台の手摺にもたれた。

「わかった、もう下がってよい」

「お館様、見返りに何を要求されるか空恐ろしくはありますが、獲って食われる事も在りますまいて」

「獲って食われるのだ!」

彩扶錏は、拳を握り締めて叫んだ。

 



 

東の空が薄明るくなり始め、明けの明星がその中に消えようとしていた頃、彩扶錏は未だ露台に置かれた長椅子の上で懊悩していた。
銀花の全てを受止めるには、その全てを知らねばならない。
そして、その全てを知るための鍵は・・・

今まで、意識してその記憶に触れないようにして来た。
だが、今回はどうしても避けて通れそうもなかった。
あの忌まわしい記憶・・・・

先の時代、京の鬼族と犬族は、何度か小競り合いを繰り返していた。
犬族の拠点は琵琶湖の東、伊吹山にあった。
京の鬼族にとっても琵琶湖は重要な場所であったが、実質琵琶湖を握っているのは犬族であったのだ。
湖の底から延びる地脈と伊吹山の地脈は複雑に絡み合って強い霊場を形成している。
それは京の都に匹敵するほどだと云われていた。
湖底と伊吹の地脈は湖西の地脈にも強い影響をも与える。
湖西の地脈の上には比良山系、そして比叡山が位置する。
そして代々〝鬼の長〟は比叡山に居を構えてきた。

犬族には、鬼族と取り立てて事を構えるつもりは無かったが、殺生丸達の父が〝長〟となってからというもの、その天下無双たる妖力や、信義に厚い性情によって傾倒するものが増え、西国一の大妖 と声高に謳われるようになると、鬼族が危ういものを感じ始めたのも無理からぬことであった。

何か事あるごとに理由をつけて仕掛ける鬼族の攻撃を、犬の総大将は軽くいなした。
そして領地外まで追い払うと、それ以上は深追いはしない。
だがそれは、その気になれば、何時でも京を攻め落とせると示されているようで、鬼族にとっては脅威が増すばかりといえた。
一時は和睦を結んだこともあり〝犬の長〟の口から直に、鬼族の領土を侵すつもりが無いことを聞いても〝鬼の長〟は信じることが出来なかった。
彩扶錏の父である先代の〝鬼の長〟は、決して狭量でも浅はかでもなかったが、如何せん〝犬の長〟とは器が違い過ぎた。

そして、幾度やっても勝てない〝犬の長〟に対抗するために〝蛟〟の強い後ろ盾を得るしかないと考えたのだった。
〝蛟の媛〟も、彩扶錏もお互いに一族の跡取り、どちらかが嫁いだり婿に入ったりという血縁を結ぶわけにはいかない。
そこで、いずれ一族を継ぐもの同士、『有事の折りには契りを結び、加勢し合いましょう』
と言う約定を結んだのである。
ありていに言えば、事が起こった暁には、彩扶錏を人身御供に差し出し〝蛟の媛〟と一夜を供にするということなのだ。

その後、犬族との小競り合いもなくなり、代が替わった今は、犬族と鬼族は立場が逆転したと言えた。
日ノ本に並ぶもの無しと言われる〝長〟を戴いた鬼族は、この世の春を謳歌している。
片や、今は齢若い分だけ引けは取るが、いずれ劣らぬ妖力を持ちながらも、勝手気ままに放浪する犬族の次代ではその差は歴然。
かくして彩扶錏にとって幸いなことに〝蛟の媛〟と『契りを結ぶ有事』には至っていない。

余談であるが、もしこのことが殺生丸の知るところとなれば、たちまちに伊吹山の本殿に立返り、鬼族と一戦交えようとするやもしれない。
なぜならば今の鬼族であれば蛟の加勢など必要としないが、重臣達は、この機会に完膚無きまでに犬族を潰すために、蛟の加勢を得ようとするだろう。
そうなると、たとえ〝長〟であろうが、いや〝長〟であるからこそ責任を全うさせようと〝蛟の媛〟の前に彩扶錏を引っ立てて差し出すこと必然であるからだ。

実はかつて一度、彩扶錏は『獲って食われかけた』ことがあった。

彩扶錏は父親から、銀花との許婚の解消と『蛟との新たな約定』のことを聞いた時、嫌な気持ちになった。
だが、〝蛟の媛〟を妻に娶るわけではない。
一族間の絆を結ぶための、儀式のような契りに他ならない。
そのこと自体を不快に感じるほど、もう彩扶錏は子供ではなかった。
いずれは銀花を妻に娶るつもりであったし、その時になって銀花が望めば、銀花にだけ貞操を尽くせばよいと納得した。
それまでは、気楽な艶事を楽しむつもりで、既に浮名を流してもいた。
問題は、犬族との争い事の方であった。
銀花と敵対するのは避けたかった。
だが、避けられないとなれば、銀花を手に入れるためには、(いくさ)は是が非でも勝たなければ ならない。
そのためならば〝蛟の媛〟を一度や二度抱くくらい何ということもない。
貌を見たくなければ灯を消せばよいことだろう。
そう高を括っていた彩扶錏は、ほどなく己の認識の甘さに臍を噛むこととなった。

妖怪の本性は様々あるが、鬼族は本性を顕わしてもさほどに変容はしない。
せいぜいが角が生えたり恐ろしい形相に変わるくらいである。
犬族はそれこそ巨大な犬妖であるが、その姿は美しいとさえ言える。
だが蛟は、蛇とも蚯蚓とつかぬ姿であり、めったに領地内から出ることもなく、ましてその〝長〟や〝直系の媛〟の全容を知るものは少ない。
水を自在に操ることが出来、その成立ちも古く、長命な妖しの中にあっても、さらに驚くほどの長命を誇っていた。

何をもって美しいと思うかは取りようひとつである。
禍々しい姿の中にも美はあるし、美しいと言われるものの中にも醜はある。
多くの妖怪は人型をとるが、それは表裏一体で、本性の姿に起因した人型となる。
本性が一見、禍々しくとも美しいものは人型になっても美しい。
彩扶錏とて妖怪。
人間とは感性が幾分違い、自身が美しすぎるせいか、こと姿形においては鷹揚でもあった。
そう〝蛟の媛〟に遭うまでは・・・
〝蛟の媛〝は本性も禍々しいが、人型も一層禍々しかったのだ。

 



 

彩扶錏は憂鬱であった。
向かう先は大台ケ原、一年の殆どを雨で塗り込められている土地。
蛟の館は其処に在った。
今日も父親の供を仰せつかり、数名の臣下らと共に蛟の館へ赴くところであった。
行きたくない気持ちがおのずと飛翔速度に出てしまう。
一行から、ともすれば遅れがちの息子に父親が声をかける。

「彩扶錏、いいかげん腹を据えろ。
 なんとしても出向かなければならぬのだ」

「父上、どうして、わたしまで行かねばなりません?」

「蛟はそうそう我らのように動くことは適わん。
 ならば此方が出向くしかあるまい」

蛟は土に根ずくもの、飛翔することはおろか、余程のことが無い限り居所を動くことも無い。
だがそのおかげで、蛟の館にさえ行かなければ媛と貌を遭わすこともないのだ。

「そういうことを言っているのではありません。
 父上だけが行かれれば宜しいでしょう」

「やつらは気難しい。
 だが〝蛟の長〟にとってあの媛は掌中の珠。
 おまえが媛の御機嫌さえ取っておれば協議も上手くいくというものなのだ。
 何も今日にも契れといっているわけではない。
 少しの間、媛の話し相手をしてくれればよいのだ」

「わかりました。
 でしたらなるべく早く済ませて下さい。
 長くは我慢出来かねます」

彩扶錏は不承不承返事をした。
そして心の内で毒づく。
《だれがあれと契るものか!》

 

媛の居室で、早く協議が終わらぬものかと思いながら、取り止めのない話をしていた。
媛は外界の話をたぶん愉しそうに聞いているふうだった。
たぶん、と言うのは、媛に逢うのも数度目なのだが、今ひとつその表情を判読出来ないでいた。
いや、直視するのを無意識に避けているせいかもしれない。
だが、彩扶錏は心の内で怖気をふるっていても、表には微塵も出さなかった。

〝蛟の媛〟は完全に人型をとることが難しいらしかった。
幾重にも重ねられた衣の下は、どうやら地中に根ざしているようで、時折《ずずずっ》と何かが擦れるような音がする。
袖に隠された手も、ちらりと見えた限りにおいて、人の手のようでもあり、触手のようにも見える。
貌は人の女貌ではあるが、厚く白粉を塗りたくり、唇に毒々しい色の紅をさしているのが却って不気味であった。
眸はきょろきょろとよく動くが、燭台の灯が当たろうとも決して光らない。
だが一番おぞましいのは髪の毛だった。
毛と呼んでいいものか、一筋一筋が個別の生き物のように時々ぞわぞわとのたくる。

《ああいっそ、本性の姿のままで居てくれた方が、どれほどか和むというものだ。
 中途半端に人型を取ろうとするから却っておぞましい》

初めて逢った時に比べれば、相当に落ち着いてはいられるものの〝亨〟で様々な形態の妖しを見慣れているはずの彩扶錏にしても、どうしても〝蛟の媛〟には馴染めなかった。
蛟族自体は、人型を取っている限りに於いて、さほどに醜怪とも思わなかったが、媛はお付の女官達ともまるで違った。
例えて言うなら、普通の蚯蚓と太さ一尺の蚯蚓の違いとでも言うのだろうか。
到底、許容で出来るものではない。
華やかな都の話は、彩扶錏のもつ雅やかな雰囲気とあいまって、媛や側仕えの女官達をも楽しませていた。
途中、彩扶錏の持っていた扇に媛の目が留った。
それは、先日手に入れたものだったが、余りに美しいと褒められるので持参しなかった土産がわりにと差し出した。

「わたしの古ものですが、お気に召したのでしたら」

迂闊にも手ずから差上げようと媛に近づいたのが不味かった。
あっと思った瞬間、彩扶錏は媛の髪に絡め取られていた。
気付くと、先ほどまで戸口に控えていたはずの女官の姿がなくなっている。
《しまった》と臍を噛むも後の祭りであった。

何とか逃れようともがくが、ますます強くしめつけられる。
それに媛の髪を引き千切ったりすれば不味いことになる。
そうこうしている間に抜き差しならないことになってしまった。

濡れたように黒光りしていた髪は、実際じっとりと濡れていた。
衣の上からとはいえ、その感触は彩扶錏の全身を総毛立たせた。
しゃらしゃらという衣擦れと、ぬちゃりという粘着質の音と共に、袖口から薄桃色の何本もの触手が顕れ、粘液の糸を引きながら、彩扶錏の衣の合わせ目、袴の裾、あらゆる隙間から忍び入ってくる。
肌の上を這うその生暖かい感触は、今まで感じたことのある何とも似ていなかった。
あろうことか、その触手の一本は一通り躯を撫で回した後、彩扶錏の中心に狙いをつけた。
そして遂には其処に到達すると、やわやわとしめつけ始めたではないか。
嫌悪で皮膚が粟立つ、その一方で快感で躯が揺れた。
幾本もの触手がのたくる様は、筆舌に尽くしがたいほどで、彩扶錏はこんなおぞましい事は後にも先にも経験したことがなかったし、これほどの嫌悪を感じさせるものは他には無いとも思った。
だが直ぐにそれは間違いだと気付く。

毒々しい紅で彩られた媛の唇の、まあるく開いたその奥に、更なるおぞましきを見留めてしまった。
そう、媛の口中には、確かに先程まではあったはずの歯が無かった。
その替わりに、無数の蠢く蚯蚓状の触手が生えていた。
その口とも呼べぬ器官が、彩扶錏の躯のどの部分に、どのように施されるか容易に想像がついた。
躯を這い回っていた触手の何本かが、器用に彩扶錏の衣の前を肌蹴させた。
媛の光らぬ眸が、この時ばかりは淫欲の光りを揺らめかせていた。
あんぐりと媛が口を開いて彩扶錏を咥えこもうとした刹那、喉が裂けんばかりに絶叫していた。

うわあぁぁぁぁぁぁぁ

 



 

気が付けばそこは彩扶錏の邸の露台であった。
どうやら忌まわしい記憶の闇に囚われていたようである。
まだ動悸の治まらぬ胸を押さえ彩扶錏は息を整えた。

あの時、協議を終わり父が迎えに来なければ、彩扶錏の身の上に、もっと恐ろしい事が起こっていたであろう。
あの出来事を知っているのは一族では父だけであった。
父が没した今、彩扶錏があれほど〝蛟の媛〟を厭う理由を誰も知らない。
色好みで絶倫を誇る鬼族の、それも、歴代の中でも最強と目される若長が、あろうことか蛟と言えども女人に
〝手籠にされかけた〟
などと、口が裂けても漏らす訳にはいかない。
彩扶錏はあの日から、一度として蛟の館に足を踏み入れていない。
あの後、彩扶錏はひと月寝込んだ。
それからは息子の焦燥ぶりを深刻に受止めて、父も彩扶錏を蛟の館に伴うことをしなくなった。

 

「ここにきて再びあの媛に遭わなければならんとはな・・・
 愛しきものを (いだ) くため、厭わしきものに擁かれん、か・・・・・」

彩扶錏ははじめ自嘲ぎみに、そして次第に大哂いを始めた。
哂いながらも徐々に貌つきが変わって、そして突然哂いやめると部屋の外に向って命じた。

「誰かある、酒呑(しゅてん)を此れへ」

程なくして、ひとりの美丈夫が彩扶錏の足元に跪いた。

「お呼びでございますか、お館様」

「酒呑、供を致せ」

「畏まりましてございます。
 で、どちらへ」

「大台ケ原だ!」

そう言うや彩扶錏は飛翔し始めた。
主に遅れてはならじと、酒呑も直ぐに後に続いた。

 

小角は空高くに主の姿をみとめ、 宿直(とのい) に問うた。

「どちらに他出なされた?」

「左将軍を伴い、大台ケ原へ参られました」

「ほう、そうか」

《お館様、あれ程お厭いなさっている〝蛟の媛〟の元においでになったか。
 なるほど、それほどに〝犬の媛〟が大事という事でございますな。
 ならばもう爺は何も申しますまい。
 思うようになされませ。
 所詮、鬼族など御身あってのこと。
 生かすも殺すもお心のままに》

 

第八話 悪 夢 おわり