第十話 禍つ神

 

通された部屋の中程まで進むと、後ろで戸が静かに閉められた。
奥の御簾の内で、ざわわという気配がすると、甲高く肌がそそけ立つような声が響く。

「あぁうれしや、お逢いしとうございました。
 (わらは)は再び背の君に、こうしてお逢い出来る日を指折り数えてお待ち申しておりましたの。
 ささ、もっと近くおいでになられて、妾に愛しいお方を感じさせて下さりませ」

するすると御簾が上がり、小袿を纏った女の姿が現われた。
久方ぶりに見る〝蛟の媛〟は、以前に比べ遥かに人型をとるのがうまくなっていた。
けれど、皮一枚のすぐ裏側で直視できない本性が蠢めいているのが感じられて、彩扶錏はやはり全身が粟立つのを禁じ得なかった。

「まず、永く御無沙汰を致しておりましたことをお詫び申し上げます。
 媛にはお変わりなく、いえ以前にも増してお美しくおなりでございますな」

「まあそのような、うれしいことを。
 なれど、それ位では許しませんぞ。
 どれほど妾が寂しかったか、今宵は朝までお慰め下さいませな」

意味深な視線を投げかけ、大げさにしなを拵えてみせる。

「ははは、なにぶん〝享〟は繁雑を極め、その上、先代が身罷りましてこちら、何やかやと多忙であります。
 何卒ご容赦頂きたいものです」

「左様でございましたな、お悔やみ申し上げまする。
〝享〟を治めるは大抵ではございますまい。
 まして、代替わりとなればそのご苦労、妾にも察せられます。
 ですが、鬼の一族は幸せでございますな。
 知力・胆力・妖力のみならず、このように見目麗しい〝長〟に率いられ、一族の更なる栄華を約束されたような
 もの。
 後は、お后様を迎えられれば一族郎党、安堵いたしましょう。
 あぁ、そのお方が羨ましいこと。
 夜毎に背の君の愛を受けられるのでございましょうな、ほんに妬ましや。
 蛟族を率いねばならぬこの躯が憎い。
 そうでなければ、どんなことをしても背の君に嫁ぎましたものを」

〝蛟の媛〟の光らぬ眸に嫉妬の情念が灯った。
本当に彩扶錏が妻を娶るとなれば、呪詛でもしかけてきかねない。

「まだ当分の間は后を迎えるどころではありませんよ」

「まあ本当でございますか?
 ならば犬族と戦でも起こればその間は、背の君の愛を妾のものに出来ましょうか。
 いっそ、戦が起きるよう仕向けまするか」

「あははは、ご冗談を」

冗談ではなく、この媛ならば画策しそうで、乾いた哂いしか出てこない。

「ところで、媛は随分と快活になられたようにお見受けいたしますが」

確かに以前の媛は、ほとんど言葉を発することもなく、御簾の陰で恥ずかしそうに伏し目がちにしていた。
もっとも、やることはしっかりやるのではあったが。

「まあ、おしゃべりが過ぎましたか?
 齢のせいか、近頃とみに伏せがちの父に代わり、一族のことや屋敷内のことなど総て、妾が采配せねばなりませ
 んの。
 何時までも引っ込み思案のままではいられません」

「それは知らぬ事とはいえ、お見舞いの品も持参せず失礼致しました」

「お気になさいますな、高齢ゆえ致し方なきこと。
 それより、妾に聞きたいことがお有りとか、いったい何でございましょう」

「はい、実は〝禍つ神〟についてお伺いしたいのです」

その言葉を聞くなり〝蛟の媛〟の貌が険しいものに変わった。

「なりません!」

そう一言いった後で、ずるりとにじり寄り、上目遣いに彩扶錏を見た。

「そのような忌まわしい言の葉は、お使いになってはなりません。
 どうか背の君の麗しい唇は、妾に愛の睦言だけを紡いでくださりませ。
 禍々しき物のことなどお考えになっては、御身が汚れてしまいましょう」

どさくさ紛れに、とんでもない事を言っているが〝蛟の媛〟の言葉には、真に気遣わしげな響きがあった。
自身も口に出すのを厭がっているように見受けられが、彩扶錏は、ここで引き下がるわけにはいかなかった。

「一族を率いて行く〝長〟としては、知っておかねばならない事だと思っております。
 何卒、媛のご存じの事をわたしに教えて頂きたい」

彩扶錏の言葉に暫し逡巡した後、真意を探るかのように聞いてきた。

「それは、永らく行方しれずであった〝犬の媛〟の帰参と係わりがおありでございますか?」

彩扶錏は、この館の奥深くから動かない媛が、銀花のことを知っていることに驚いた。
媛だけではなく、蛟は元々自身の縄張りからあまり出歩くことはない。
それは他の地に住む蛟とて同じことで、他の妖しと交流を持つことも少ないはずだ。
では他所に住まう蛟が銀花の帰参を知り、わざわざこの地まで知らせに来たのだろうか?
ともかく今、銀花への彩扶錏の想いを、知られるのはまずかった。

「大妖怪であった〝長〟を欠いて弱体化した犬族は、背の君の敵ではございますまい。
 妾としては、戦が起こった方が嬉しいとも言えますが、なれど、あの媛が帰参したとなるとやっかいな事となりまし
 ょうな」

どうやら〝蛟の媛〟は鬼族と犬族の覇権争いの事を言っているらしい。

「いえ、今、犬族と事を起こそうと思っているわけではございません。
 ですが、未だ力の足らぬ〝長〟としては、一族の行く末の事も常に考えねばなりません。
 媛、どうかこの彩扶錏に教えてはもらえますまいか?
 願いを聞いてはもらえませんか?
 他に聞ける相手がおりません、あなただけなのです」

いかにも芝居がかっているとは思いながら、切な気な眸でじっと媛を見やる。

「あれ、そんなお貌をされては誰も否とは言えますまい。
 背の君のたっての願いとあらば、妾が知っていることをお教え致しましょう」

 



 

突然の疾風に、衣の袖で貌を覆った犬夜叉が目を上げた時には、もうすぐ前に殺生丸が立っていた。
そして、いつもの如く、見下したように言い放つ。

「ふん、やはり半妖だな。
 犬夜叉、きさまは隙だらけだ」

犬夜叉は、すぐさま後ろに飛び退ったが、殺生丸の手の動きの方が勝っていた。
爪で眸を抉られると思った時、犬夜叉は一瞬目を瞑った。
だが、襲ってくるはずの痛みはなく、躯のどこにも異常はなかった。

「どんな時であろうと、決して目を閉じるな!」

そう言うと殺生丸は飛び去ってしまった。
犬夜叉が我に返った時には、遠ざかる殺生丸の姿は空の彼方に消えようとしていた。

「あいつ・・・何しに来たんだ?」

 

殺生丸は犬夜叉から十分に距離をとったことを確かめると、地に降り立った。
緩く握っていた指を開くと、掌の上に小さなものがある。

「起きろ冥加!」

そう言うと、飛ばさぬよう気をつけながら息を吹きかけた。
気絶していた冥加が目を覚ますと、そこには懐かしい貌があった。

「お館様、お懐かしい。
 お会いしとうございました。
 あっ、では、儂は遂に死んだのでございますか?」

「寝ぼけるな!冥加」

「せっ殺生丸様!」

慌てて逃げようとするのを爪の先で捕らえた。

「儂をどうなさるおつもりですじゃ?」

「きさまに聞きたいことがある」

「聞きたいことでございますか?」

「姉上のことだ」

「銀花様のことでしたら、殺生丸様がご存じのこと以上には、儂は何も知りませんのじゃ」

殺生丸は、優美な眉を僅かに顰め爪先にほんの少し力を入れた。

「冥加、今ここで捻り潰してもかまわんのだぞ」

冥加は殺生丸の爪の間でじたばたともがいた。

「ぐっぐるじい、分かりました!
 分かりましたから力をお緩め下さい」

「最初からそう言えばよいものを」

 

《どうしてこの方とお館様を間違えたりしたのだろう。
 確かに親子であるのだから似ている処もある。
 だが、醸し出される雰囲気がまったく違うのだ。
 酒にたとえるなら、お館様は芳醇なる古酒。
 円かな味わいで夢の世界に誘う。
 片やこのお方は、凄烈な香りと味に研ぎ澄まされた新酒。
 一見さらりとした口当たりに気付けばあの世に旅立っていることにもなる》

冥加はしげしげと殺生丸の怜悧な貌を見上げた。

「どうした!」

「いえ、どうもいたしません。
 それで、銀花様の何がお知りになりたいので?」

「きさまの知っていること総てだ」

 



 

〝蛟の媛〟は、まるでつい数年前の事のように話し始めた。

「古のそのまた昔、この地には我ら妖しの種族が充ち溢れておりました。
 人間など、まだ翳も形もなかった頃のことでございます。
 妖し同士も種族の違いから、争う事も数多ありましたが、それでもこの地上は我らの世界だったのです。
 それがある時、空の彼方から〝やつら〟がやって来た。
 〝やつら〟は、我らを蹂躙し、この地上を己がものにせんとしたのです。
 無論〝やつら〟の暴挙を黙って見ていたわけではありません。
 我らは一致団結し、死闘を繰り広げました。
 ですが〝やつら〟の力は侮りがたく、じりじりと敗退を余儀なくされていったのです。
 その上、力弱きもの達の中には〝やつら〟の軍門に下る輩まで出始める始末。
 やがて我らはちりぢりになり、ついには闇に潜み〝やつら〟の眼を避けて生きるしかなくなったのです」

実際にその時を生きて、戦い破れたわけではないであろうに〝蛟の媛〟の貌には無念と悲哀の影が宿っていた。

「その〝やつら〟とは何ものなのですか?」

彩扶錏の問いに〝蛟の媛〟はかぶりを振った。

「どこから来たのか、どうして来たのか、何もわかりません。
 唯、我らはこの世界を守るために戦ったということです。
 その戦や、後の永い暗黒の時代に、数多の妖し種族が絶えて逝きました。
 背の君は不思議に思われましょうな、妾がこのようなことを見てきたように話すことを」

「ええ、まさか、媛は太古の昔から生きておられるのでしょうか」

「まあいぢわる!
 妾はそんな年寄りではございません!
 我ら蛟は、記憶を共有することが出来るのです。
 そして〝長〟となるものは、代々の〝長〟の記憶を己の記憶のように受け継いでいくのです。
 また、初めから意識を結んでおけば、遠く離れた同胞の記憶を受け取ることも出来ます。
 ですから、我らはこの地を動かずして、色々な情報を得ることが出来るのですわ」

「ほうっ 不思議な力でございますな」

なるほど、と彩扶錏は合点がいった。
東国に住まう蛟や他所の蛟から、記憶の情報を受け取ったとすれば、銀花のことを知っていてるのも頷ける。
そして、先ほど漏れ聞いた侍女達のひそひそ話は、あの時の記憶を媛が侍女達に分け与えた故なのだろう。

《・・・まったく、わたしは蛟の女達に玩具にされたようなものだな・・・》

彩扶錏は腹が立つよりも呆れはてた。

「〝蛟の長〟はその能力ゆえかろうじて覚えておりますが、他の一族のものは〝やつら〟 が空の彼方からやって
 来たことも記憶の狭間に埋もれ、いつの頃からかこう呼ぶようになっておりました〝古きものども〟と」

この言葉には彩扶錏もさすがに厭な心地がした。

「〝古きものども〟それが禍つ神の正体なのですか?」

「そうとも言えます。
 ですが背の君、話にはまだ続きがあるのです。
〝古きものども〟の栄華もそう永くは続きませなんだ。
〝あれら〟が〝古きものども〟と同じように空から舞い降りてきたからです。
〝あれら〟とは、我らは便宜上〝飛来しものども〟と呼びましたが、
 それは更に忌まわしい存在だったのです」

「更に忌まわしい存在・・・」

「〝飛来しものども〟はまったく理解することが出来ない。
 それに比べれば〝古きものども〟の方がまだましというもの。
〝古きものども〟には、この地を征服するという意志があった。
 ですが〝飛来しものども〟は、何も考えてなどいない、心の中は・・・心があればですが・・・
 虚無なのです。
 ただ本能のように殺戮を繰り返すだけ。
 我らにとって幸いだったのは〝飛来しものども〟が、まず敵としてぶつかったのが〝古きものども〟だったことで
 す。
 永きに渡る死闘の末、勝利を収めたのは〝古きものども〟の方だったようですが、その戦いは凄惨を極めた。
 生き残った〝飛来しものどもは〟空の彼方へ逃げ去ったのですが〝古きものども〟も勿論無傷では済みません
 でした。
 その数は激減しました。
 あるものは傷ついた躯を癒すため、海の底深く何時目覚めるともしれぬ眠りについた。
 またあるものは違う次元に己の小さな世界を創り引きこもってしまった。
 そして、最強の力を有したひとつの部族もまた異次元に住まい現世からは姿を消した。
 ですが奴らはあろうことか人間に知恵を与え、己らを神として崇めさせたのです。
 忌々しいことにその部族が居座ったのがこの日ノ本の地、奴らの次元と繋がる通路は出雲にある。
 それが、この日ノ本の人間に伝わる〝天つ神々〟の伝承なのです」

 



 

「〝天つ神々〟が〝古きものども〟そして〝禍つ神〟もまた同じ。
 そういうことなのか、冥加」

「さようでございます、殺生丸様」

「では〝禍つ力〟を宿す姉上は〝古きものども〟の(すえ)だとでも言うのか!」

知らぬ間に力が入り爪先の蚤妖怪を圧迫していた。

「ぐっぐるしいぃ・・・力を緩めてくだされ」

はぁはぁと息をつきながら冥加は言う。

「先をお急ぎめさるな、殺生丸様。
 どこの世界にも、はみ出し者はおりますな。
 人間どもに〝高天原〟と呼ばせた高次元に居を構え、そこから人間界を支配していた部族は強い長が治めてい
 ました。
 ですがその中に勝手な振る舞いをするものがおりましたのじゃ。
 しかもそれは最強にして最凶。
 業を煮やした〝長〟が、その乱暴者の力を半分に分かち、人間界に追放したのです」

「それがこそが〝禍つ神〟か」

「さようです。
 そしてその分かった半分の力を〝禍つ神〟に奪い返されぬよう、あろうことか妖しのある一族の血の裡に潜ませ
 たのです。
 それが銀花様に流れるもうひとつのお血筋〝朱家〟なのです」

「朱家・・・・」

殺生丸はその名に聞き覚えがあった。

「今は、本筋で継ぐものがいなくなったそうですが、銀花様の祖母君に当たるのが朱家の媛君だったのです。
 銀花様の母君は〝先々代の長〟つまり殺生丸様のお祖父様が〝朱家の媛〟を見初め産ませたお仔だったの
 です。
 朱家は呪われた秘密を守り、血族だけで交わりひっそりと暮らしておりました。
 ですがその時、犬一族の宗家に朱家の血が交ざったのでございます」

「父上と、姉上の母君は異母姉弟だったな」

「はい、お館様は純粋な犬妖の血筋、殺生丸様もさようでございます。
 ですが、銀花様は厳密に言うなら四分の一は朱家の血筋でございますな」

「朱家とは、いったいどういう一族なのだ」

「よくは存じませんが、蛟族よりも古い一族だと聞き及びます。
〝禍つ力〟とは朱家の媛にだけ受け継がれる〝種〟のようなものなのです。
 もし〝禍つ神〟が力を奪い返せば、この世は混沌の世界となり果てましょう」

険しい顔つきで殺生丸は聞いた。

「姉上は幼き頃、父上の結界の奥で育てられたと聞いた。
 ならば、朱家の媛はみなそうなのか?
 朱花殿もそうなのか?」

「殺生丸様、儂は先ほど〝種〟と申し上げましたが、まさしく〝種〟なのです。
 禍つ力は、朱家の媛に受け継がれはしますが、代々順送りというわけではないのです。
 それは散発的に継がれ、その上〝種〟が必ず芽吹くとは限らない。
 いいえ、芽吹くほうが稀で、そして芽吹かない限り禍つ力が顕われることは無いのです。
 ゆえに〝種〟を体内に宿しているか、否かは まったく分からないというわけです。
 実際、儂が聞き及びます限り、永い時の中で〝種〟が芽吹いたのはたったの三度。
 一度目は何代も前の媛で、直ぐに仔を成して事なきを得たそうです。
 つまり、仔を成すと芽吹きはじめた種であっても、次代かその次か、はたまたもっと後かに流れてしまうのですな。
 そして、二度目は朱花様でありました。
 朱花様はそれはお優しく、お美しい媛様で、誰も彼もが妻にと望んだものです。
 じゃが、ある日朱花様の額に朱色の星型の印が顕われたのです。
 それこそが〝種〟が芽吹いた印、そして徐々に〝禍つ力〟が満ち始めたのです。
 様子のおかしい姉媛様から、朱家の秘密を聞き出したお館様は、すぐさま朱花様を妻になされ仔を為そうとした
 のです。
 ですが、朱花様は承知なさいませなんだ。
〝禍つ神〟に嗅ぎつけられる前に、自害して果てるおつもりだったのです。
 朱花様としては仔をなして末裔に呪われた〝種〟を送りたくなかったのでございましょう。
 けれど果たして禍つ力がそうさせてくれたかは疑問ですじゃ。
 そして半ば強引に、半ばお館様のお気持ちに絆されるようにして妻となられ仔をもうけられたのです」

「つまり朱花殿が〝禍つ神〟に見初められたという話は、朱家の秘密をひいては〝種〟が芽吹き始めたことを隠
 す方便か」

「さようでございます、殺生丸様。
 永い年月の間に忘れ去られてはきましたが〝禍つ神〟という響きは、我ら妖しの中に不吉なものを呼び覚ます
 のです。
〝禍つ力〟の真実が明らかになれば、多くの妖怪は恐慌をきたし、朱家の血を引くものは追われることとなりまし
 ょう」

「姉上にかけられた〝禍つ神〟の呪いというのも・・・」

「はい。
 もっと大きな呪いを隠すために流布された話にございます」

「大きな呪い・・・・とはなんだ? 冥加」

「殺生丸様ならもうお分かりでございましょう?」

自分の推量が外れていてほしいというような貌付きで殺生丸は言った。

「・・・姉上は、生まれながらに既に芽吹いた〝種〟をもっていたのだな・・・」

「お館様と朱花様が、最善だと思ってしたことが、最悪の事態を招いてしまったのです。
 朱花様のお嘆き様は傍目にも辛く、その心労とお産の疲れとが重なりひと月目にお亡くなりあそばした」

殺生丸は、父が怒りと悲しみのために、銀花を殺そうとしたという話は信じていなかったが、違う意味で始末をつけようとしたのかもしれないと思った。

「父上は我が仔の、姉上の呪われた運命を己が手で終わらせてやるために刃を振り下ろそうとされたのか」

「いいえ、振り下ろされましたのじゃ。
 ですが、赤子の銀花様は結界にて弾き返された。
 それほどの力なのでございます」

「本当に父上は姉上を殺そうとなさったのか」

果たして己が父の立場なら、我が仔を殺すことが出来るであろうか?
今の殺生丸に、それを慮ることは出来ない。
だが、愛する姉媛を己が殺すことなど考えられなかった。

「儂は、お館様は〝種〟の力だけを断ち切ろうとなさったのだと思います。
 赤子の間ならばそれも可能かと思われたのではありませんかな。
 それでなければ、哀し過ぎますじゃ」

「父上亡き今、どのような思いであられたのかはもう知るすべはないか」

殺生丸はふと、銀花はその時の記憶があるのではないかという気がした。
それを父に確かめてみたかったのではあるまいか。
それが、確かめる決心がついた時には、父はもうこの世になかった。
銀花が父の形跡を辿り巡っているのを知っている。
父の足跡から何かを掴みたいに違いない。

《どうしてだろう? 確かめる必要などあるだろうか。
 父上はあれほど姉上を慈しんでおられたのに、なぜ姉上には分からない・・・》

「〝禍つ神〟はどこにいる?
 分かたれた力の在りかに気付けばどうなる?」

「力の半分を失い、落とされた人間界で〝飛来しものども〟の生き残りと戦い疲弊して永い眠りについている、と
 いう言い伝えでございます。
 眠りから覚め、失った力の存在を感じれば恐らく取り戻しに顕れましょうな。
 が、そうならぬようお館様は、銀花様のその力を秘術をもって封印なされたのです。
 ですが・・・」

「なんだ?」

「その封印、お館様の亡くなられた今、何時まで保ちましょうや」

「なんだと!」

「殺生丸様は幼きころより慣れ親しんでおられるからか、お感じになられぬようですが、お館様から受け継がれた
 妖しの強い妖力の下に、冷たく慄然たる力が幽咽している。
 それが儂には、以前より強く感じられて恐ろしいのです」

「己の死によって破れる封印など、父上がなされるわけがない・・・」

そう言いながらも、胸に不安が過る。
もし、父が当初に思っていたよりも銀花の禍つ力が強かったとしたらどうだろう。

「以前、銀花様は犬夜叉様にこうおっしゃったそうです。
『おまえと我は似ているな』と」

「〝鉄砕牙〟は、犬夜叉の妖怪の血を抑える守り刀。
 もし〝鉄砕牙〟を手放せば妖怪の血に呑まれる。
 姉上にとっての鉄砕牙は、父上の秘術による封印。
 そして封印が破られれば、禍つ神に見つかる前に、その力に呑み込まれてしまうということか」

殺生丸は、犬夜叉が己を失い妖怪化した時のことを思い出した。
封印が敗れた時の、銀花の身の上に同じことが起こるかもしれない。
いや、それはもっと悲惨であろう。
殺生丸の優美な貌が苦痛に耐えているように歪む。

冥加は、殺生丸の思い煩う貌を見るのは初めてだった。
時に、冷酷無慈悲でさえある殺生丸が、こんな貌をするとは思わなかった。
そして、この貌には見覚えがあった。
それは、姉媛である朱花の背負った運命と、自害して果てる決心を知った時の、主の貌にそっくりだった。
その後、冥加は、更に深い哀しみに沈む主を見ることとなったが、いつの日か同じように悲痛な叫びを上げる殺生丸を見ることになりそうな予感がした。

「冥加、先程きさまは姉上が恐ろしいと言ったな。
 だから、邸の物共は姉上によそよそしかったのか」

「齢を重ねたものほど、封印されていても尚、漏れ出でる冷たい力を敏感に感じるのです。
 どうしようもなく、躯が怯えてしまうのです。
 まして、力を封印される前の銀花様を知るものが怖れるのは致し方なきこと。
 あのお方の裡には、我等を滅ぼす恐ろしい力が視えるのです」

「馬鹿らしい、わたしは姉上を怖れたことなど無い」

「銀花様を怖れぬものは、よほどの妖力を有しているか、あの力ごと銀花様に惹かれる数少ないものだけでしょう。
 怖ろしい力ではあるが、一方では総てを惹きつける力でもある。
 そして、人間は畏敬の念を持つことはあっても、畏怖はしない。
 犬夜叉様や、かごめ達も怖れたりしませんな。
 ですが、妖しにとっては脅威。
 言葉は悪いが、銀花様は、妖しにも当然人間にも属さない。
 次元は違いますが半妖が一番近しい表現かもしれません。
 幼き頃より孤独であられたが、それは今も変わらないでしょう」

「姉上にはわたしがついている。
 孤独などにはさせない」

「さようでございますな、けれど、真にあのお方を理解は出来ない。
 お怒りを承知で申し上げるならば、空の高みを飛ぶ鳥の心は、同じ高さを飛べる鳥にしか分からないものです。
 唯一理解出来るものがあるとすれば、やはり〝古きものども〟いや、〝禍つ神〟でありましょう」

「禍つ神が目覚めずとも、封印が破れれば力に呑み込まれる。
 封印が破れずとも漏れ出でる力に畏怖される。
 誰も孤独を慰められないとしたら、姉上はどうすればよいのだ・・
 ・・・・姉上はご自身の運命をよくお分かりなのだろうな」

「お分かりでしょう。
 依る術のない哀しい運命は、誰に聞かずとも、朱家の血が教えてくれるのだそうです。
 儂がこのようなことを知っていますのも、お館様が朱花様より聞かれたのを教えていただいたからです。
 朱家は禍つ力と、古の事柄を連綿と語り継いで来たのです。
 朱家の又の名は〝朱砂〟家と申すのでございます」

「〝すさ〟家?」

「はい、殺生丸様。
〝禍つ神〟の本当の名は〝素戔嗚〟」

 



 

「素戔嗚・・・それが〝禍つ神〟の名」

「さようです、背の君。
 人間どもの伝承の中には多くの真実も含まれております。
 ですが、その真実は人間どもや〝古きものども〟に都合良く歪められているのです」

「〝素戔嗚〟の力を分かった〝古きものども〟の〝長〟は、今はどこに居るのでしょう?」

「さあそれでございますが、ここ何千年もなりを潜めております。
 この地に興味を失い彼方へ飛び去ったのやもしれません。
〝素戔嗚〟は失った力を取り戻すまではこの地を離れますまいが。
〝古きものども〟とて、疲れもしますし、傷つきもいたします。
 そういえば近頃、やつらの眷属が暴れたことがありましたな」

彩扶錏には思い当たることがなかった。

「それは、どのような」

「〝犬の長〟が所持していた剣が、騒動を起こしたことがございましたでしょう。
 からくも〝長〟の仔らが始末をつけたようですが」

「〝叢雲牙〟が〝古きものども〟の眷属?」

「背の君はご存じか?
 あの剣が〝犬の媛〟に仕えたがっていたということを。
 さもありなん。
〝犬の媛〟に同じ匂いを嗅ぎ取ったのでありましょう。
 他にもございますよ。
 背の君の〝京の都〟攻略の邪魔者〝玄武・朱雀・青龍・白虎〟は〝古きものども〟が人間を我らから庇護する
 ために創りしものです」

彩扶錏は流石に驚きを隠せなかった。

「では、ひょっとして〝麒麟〟もそうなのですか?」

〝蛟の媛〟は頷いた。

「〝犬の媛〟が幻の大陸から〝麒麟〟を連れ帰ったそうですが、その大陸こそが〝やつら〟のひとつが違う次元
 に創り出した世界。
〝蝕〟と呼ばれる嵐によって、あちらからこちらに流されたり、何かの弾みでこちらからあちらに流されたりすること
 はあっても、行こうと思って行ける場所ではございません。
 が、あの媛ならそれも可能でございましょう」

彩扶錏は銀花の言葉を思い出していた。

《あまり我に関わると面倒ごとに巻き込まれるぞ。なにせ我は禍の種を宿しておるからな》

そう言った銀花の横顔は、とても寂しそうだった。

「〝素戔嗚〟が力を取り戻しに顕れたらどうなりますか?」

「ご心配めさるな〝犬の媛〟とて易々と奪われたりはいたしますまい。
 力でいえば同等ともいえる。
 結果、どちらも無傷では済むわけはない。
 あわよくば相打ちになるを願うが、片方が死んでくれれば良い。
 その後に残った方あるいは、弱った両方を滅するのは容易いこと。
〝素戔嗚〟を滅することが出来れば、積年の恨みも少しは晴れましょう。
 我らは唯、機会を待てば良いのです」

〝蛟の媛〟は、その時がくれば銀花まで葬るつもりらしい。

「のう背の君、不世出の大妖怪と謳われた〝犬の長〟も哀れなことでありますなぁ。
 嫡男は妖力は強いらしいが一族を統べる気もないのか、我が道を行くとばかりに、ふらふらとほっつき歩いている。
 末の仔は言うまでもなく半妖の半端者。
 挙げ句、最愛の妻の忘れ形見の媛は、まごうかたなき〝化け物〟とあっては、おちおち成仏も出来ますまい。
 権勢を誇った〝犬族〟も今や没落を辿るのみ。
 哀れを通り越して、滑稽ですらありましょう」

けけけけ と耳障りな嗤い声を上げる。

「嫡男〝殺生丸〟は、いずれ道を極めれば、後は一族を纏め〝良い長〟になりましょう」

先の時代に、何度も辛酸を舐めさせられてきた〝犬族〟を庇うような彩扶錏の物言いは〝蛟の媛〟には意外だった。

 



 

「父上が施された封印とは、どんなものなのだ?」

「儂にも分かりませんのじゃ。
 古の秘術であるらしいのですが。
 もし、その秘術を知るものかあるとすれば、それは〝蛟の長〟ぐらいでありましょうか」

少しの間考え込んでいた殺生丸は言った。

「姉上をお守りするには、仔をなすしかあるまいな」

殺生丸の言葉に冥加は死ぬほど驚いた。

「せっ殺生丸様、何をお考えでございます?
 まさか、お館様と同じことをなさろうというのではありますまいな。
 いけません、きっと更なる悲劇を生むこととなりましょう!
 せめて、違う種族のものに・・・〝鬼の長〟あたりならば・・・」

幸いにも飛翔し始めていた殺生丸には、冥加の最後の言葉は聞こえなかった。

 



 

「〝犬の長〟が施した封印の秘術とは、如何ような術なのかご存じですか?」

「背の君は、『熨魂(いこん)の術』と言うのを聞いたことがございませんか?」

「『熨魂の術』・・・それは、荒ぶる魂を抑え、その魂を術者の使令とする術のことでは」

「さようでございます。
〝禍つ力〟とは即ち〝禍つ神・・・素戔嗚〟の力。
 力の源は魂でございます。
 ですが〝犬の長〟が用いたのは唯の『熨魂の術』ではありません。
 触媒として魂を使うのです」

「魂を触媒として使う『熨魂の術』?」

魂を触媒に使う術は他にもあるが、それらは総て危険なものだった。
まして、魂を抑えるのに魂を使うというのは、一見道理にかなっているようだが、危険度は計り知れないように彩扶錏には思えた。

「あの術を使えるものは今やこの世にはおりますまい。
 あの大妖怪であるからこそ成し得たのでありましょうが〝犬の長〟はよほどに媛が愛しかったのでありましょうなぁ。
 媛の魂でもよかったのに、己の魂を使こうたのですからな」

「〝犬の長〟が己の魂を触媒に使ったと、どうしてお分かりになるのです?
 間者を犬族の中に潜ませておいででしたか?」

「さにあらず、そのようなことをしてもすぐに知れてしまいましょう。
 なにせ、犬族は鼻が利きますゆえな」

「ではどうして?」

「『熨魂の秘術』に魂を使うことを知らなければ〝犬の長〟が己の魂を使ったとは誰も気付きますまい。
 多分、術を施された〝犬の媛〟すら気付いておりますまいな、愚かなこと」

〝蛟の媛〟は、したり顔で言った。

「背の君は〝犬の長〟の最後をお聞き及びではありませんか?」

「確か、末の半妖〝犬夜叉〟の母を助けるため、刃向かう人間と戦い、炎上する館の内に散ったとか」

「おかしいと思われませぬか、背の君。
 いくら竜骨精との戦いで傷を受けていたとはいえ、たかだか人間相手にあの大妖怪が命を落とすことなどありえま
 しょうか?
 そもそも、竜骨精がいくら強い妖怪であったとしても〝犬の長〟が滅することも出来ず、封印するのがやっと、など
 というのはおかしいではありませんか」

確かに言われてみればおかしい。
大妖怪である父が封印することしか出来なかった竜骨精を、いくら手傷を負っていたと言えど、半妖の犬夜叉が滅したという。
ならば犬夜叉はすでに父妖を超えたか、同等ということになるが、そうとも思えない。
では、残るは〝犬の長〟の力が弱まっていたということになるまいか。

「お気付きにならしゃいましたか、背の君?
 そう〝犬の長〟は妖力が弱まっていたとしか考えられますまい?
 それどころか、命が尽きようとしていたのです。
 本来ならば、もっと齢を重ねていくのが順当。
 早すぎるのです、あまりに早すぎる死期。
 それは、魂の大半を媛のために使ったからです」

「そうだったのですか。
〝犬の長〟は己の魂の大半を使い〝禍つ力〟を封印したのですか」

「なにも『熨魂の秘術』など使わずとも、地中深く幾重もの結界のなかに閉じこめておいてもよかったのです。
 一歩も外へは出られませぬが、己の禍々しさを教えてやれば、媛とて大人しゅうしておりましたでしょう。
 いえ、いっそひと思いに殺してしまえば後腐れもなかった」

〝蛟の媛〟は非情なことをさらりと言った。

「ですが〝犬の媛〟は赤子の時に〝犬の長〟の一太刀を跳ね返したと聞きますが?」

「赤子の生存本能とは意外に強いもの。
 物事の分かる齢になり、産まれてくるべき存在でないことを説いてやれば、覚悟もいたしましょう。
 禍つ力が抵抗しても、まだ未熟な媛の裡にあるうちならばどうとでも出来たでしょうに、けけけけ」

彩扶錏は〝犬の長〟はそんなことは考えもしなかっただろうと思った。
赤子の時に振るった一太刀は、何か思うところがあったに違いない。
銀花に明るい陽の下を歩かせてやりたくて、己の魂の大半を惜しげもなく使ったのだ。
あの夏の日、ふわりと笑った〝犬の長〟の貌が蘇ってきた。

「背の君、厭わしい話はもうよろしいでしょう?
 今宵は望月、(ささ)など用意させます故、縁にて月見などいたしましょうぞ」

気がつくと、渓に張り出した簀子縁の向こうに見える山々が朱ね色に染まり始めていた。
隠微な景を眸に宿し、にじり寄ってくる〝蛟の媛〟に、彩扶錏は思わず後ずさる。

《・・・酒呑のやつ、何をしているのだ!遅いではないか。
 あの莫迦は昼寝でもして、寝過ごしているのではあるまいな・・・》

このままでは、縁の高欄に行き当たり退路を断たれる。

《酒呑ぇぇぇん!》

彩扶錏が心の中で叫んだ時、几帳の向こうで侍女の声がした。
愉しみを中断された〝蛟の媛〟はあからさまに不快な声を出した。

「なんじゃ!」

「〝鬼の長〟に使いの方が参っております」

「背の君に使いとな?」

「なにやら火急の知らせがおありとか」

「ならば直ぐにこちらへ通しゃ!」

通されて来た酒呑は、一瞬かいま見た〝蛟の媛〟にぎょっとしたが、直ぐに伏令した。
彩扶錏は胸をなで下ろしていたが、そんなことはおくびにも出さずにしれっと言う。

「火急の用件とはなんぞ酒呑!
 久方ぶりの媛との逢瀬、つまらぬ用件なら許さんぞ」

「はっ、小角様がご危篤でございます」

「なにっ! 爺が危篤というのか?」

「うわごとで、お館様をお呼びでございます」

《・・・よく言った酒呑!褒めて取らす》
彩扶錏は心内でほくそ笑んだ。

「まあ、小角殿とは確か背の君の傅であらしゃいましたなぁ」

「はい、幼き頃より世話をかけてまいりました。
 その爺が今わの際にわたしを呼んでいるとあっては、帰ってやらねばなりますまい」

「さようでございますな。
 真に残念ではありますが、致し方ございません。
 あぁけれど、ほんに心残りでありますなぁ」

しきりに残念がる〝蛟の媛〟に、妙な約束などさせられては事だと、代案を打ち出す。

「そうだ、わたしの代わりといっては何でございますが、この〝酒呑〟を置いてまいりましょう。
 これは京の町にもよく遊びに出掛けますゆえ、わたしなどよりもよほど面白可笑しい話も存じておりますよ」

「まあ、京の都の話とはうれしや。
 それに、なかなかの美丈夫ではありませんか」

どうやら〝蛟の媛〟は酒呑を気に入った様子であった。

「???お館様?・・・」

今ひとつ状況を把握できずに酒呑はきょとんとしている。

「では急ぎますゆえ、わたくしはこれにてお暇いたします。
 酒呑、粗相のないように十分にお相手いたせ」

言うなり、早々に退出してしまった主を見送った後、酒呑が部屋内に視線を移すと、いつの間にか十数人もの侍女達が眸を煌めかせて居並んでいた。

「酒呑とやら、近う寄るがよい!」

〝蛟の媛〟の声に、女達も淫靡に色めいた声を上げた。
流石に呑気な酒呑にも、この後の我が身に降りかかる災厄がありありと想像出来た。

《・・・お館様ぁぁぁ・・・あんまりですぅぅぅ・・・・》

 

後に、酒呑が京に帰り着いたのは七日後のこととなるが、その時の酒呑の様子は、精魂尽き果てすっかりやつれてしまい、老人のような腰つきであったという。
そして、酒呑の忠義心に翳りが生じたのはいうまでもない。

 

逃げるように蛟の館を後にした彩扶錏は、十分に距離を取ってから、峰のひとつに降り立った。
〝蛟の媛〟の話を思い起こし、夕日に染まる葛城の峰々を眺める。

彩扶錏は今、無性に銀花に逢いたかった。

夕日に朱く染まる峰よりも、あの空の下のあなたを想って、私の心は朱く燃えています

 



 

時を移して、小高い山の頂で、同じような想いで月を仰ぐ殺生丸の姿があった。

あなたの往く暗く辛い路を、僅かなりとも心安くなるように、どうぞ天の月よ、照らしてください

 

第十話 禍つ神 おわり