第二十話 供 血 其の二

 

繰り出す爪の攻撃を次々に躱されて、漂い始めた敗北の気配に苛立ち、冷静を欠いた殺生丸は、もはや相手の敵ではなかった。
個別に比べれば妖力は勝っていても、実践の経験が浅い殺生丸に、様々な陣形を駆使しての戦い方を熟知している敵は、まるで蟻の軍団が弱った得物を覆い尽くすように襲いかかってきた。
そして気付いた時には四肢を押え込まれ、爪を封じられていた。
よもや後れを取るとは思っていなかった殺生丸は、憎悪と屈辱、そして己の未熟さへの怒りで眼が眩んだ。
意識を失う寸前、父の言葉がよみがえったが、もう時は遅きに過ぎた。

「殺生丸、近頃は出雲へよく往くらしいが〝土蜘蛛〟共がなりを潜めているのをよいことに、あの地には雑多なもの
 が流入している。
 中には大陸渡りの術を使うものもいると聞く。
 暫く彼方へは出歩かぬがよい」

父の忠告には素直に頷いておいたが、その実、殺生丸には従う気はなかった。

出雲の地には銀花と何度も往っていたので土地勘もあるし、これまで己よりも強い相手に遇ったこともなかったのだ。
あの頃も今も、出遭った妖しは皆一様に踵を返し遠巻きに観ているだけであった。
出雲の妖しは〝土蜘蛛族〟であっても〝犬族〟の嫡子と知れるものに、敢えて手出しはしない。
尤も、銀花といた頃に出雲の妖しが畏怖を込めて見詰めていたのは、銀花の裡にある力を感じ取ってのことだった。

出雲は〝土蜘蛛〟の支配する地であったが、遥か古には〝古きものども〟と呼ばれるものにも愛でられた地であった。
そのせいなのか〝古きものども〟の力を秘める銀花には、出雲の山が森が渓谷が心地好かった。
独り深い森の懐で何時間も佇むことがあったが、いつの頃からか殺生丸が付いて来るようになっていた。

〝古きものども〟との戦いに於て、出雲の妖しの被害が一番甚大であったが、敗戦の後もその地を離れようとしなかったため、奴等に見付かると言葉に出来ないほどの惨たらしい目にあった。
故に出雲の妖しは〝古きものども〟の気配に敏感だ。
そして銀花の、封印されていて尚、漏れ出でてくるその気配に畏怖した。

銀花と共に幾度も過ごしたと言うだけで、殺生丸にとって出雲の森は好もしい場所になっていた。
時折、海岸線に出て海の向こうの大陸に想いを馳せる。
そこに銀花がいるのだと思うと、すぐにも海を越えて往きたい心持ちになるが、何故か己には銀花を見付け出すことは叶わない、という気がして踏みとどまっていた。

その日も、数刻を銀花と遊んだ渓谷で過ごした殺生丸は、辺りが夕闇に包まれるなか、周りを囲まれていることに気付いた。
深い物思いに沈んでいたため、気付くのが後れたのだ。

「ちっ」

ひとつ舌打つと爪を構えたのだった。

 



 

気が付くと、連れ込まれたのは洞穴のようであった。
音の反響から複雑に入り組んでいるのが分る。
手足を縛られ床に転がされているが、幸いどこにも傷を負っていない。
近づく足音に首を巡らすと、頭目らしき奴が立ってた。

「気が付いたか。
〝犬の媛〟は禍つ力を秘めていると聞いたが何ほどのこともないな。
 確かに妖力は強いが戦い方は未熟だ。
〝闇の媛皇女〟などとは、所詮は根も葉もない噂だったか。
 まあその真相はともかく、美しさに於ては噂以上だな」

唇の端を捲り上がらせて厭な嗤いを浮かべている。
どうやら殺生丸を銀花と間違えているようだが〝禍つ力〟だの〝闇の媛皇女〟だのという事を初めて聞いた殺生丸には、何の事を言っているのか分からなかった。

銀花の裡なる力は〝犬族〟内では暗黙の禁忌とされていたために、あえて誰も殺生丸にそのことを教えなかった。
殺生丸は、銀花の妖力が並外れて強いことは知っていたし、戦うところも何度も見ていた。
だが封印されていても尚、誰もが感じる畏怖も、殺生丸には愛する姉の一部として感じるだけであった。
もっとも銀花は一度として全力を出して戦うことはなかったのだが。

「おまえの妖力を取り込む前に、暫しの間、愉しめそうだな」

殺生丸の腕は手首を交差させて胸の前で縛められていた。
相手がもっとよく貌を見ようと近づいたのを、狙いすまして毒華爪を繰り出す。
だが、僅かに相手の反応が上回っていた。
強い力で岩壁に叩き付けられ、したたかに胸を打って息が出来ない。
喘いでいるのを背後から掴まれて床に打ち据えられ膝で押さえ込まれた。
慎重に手首を掴んでくる。

「まったく、とんだじゃじゃ馬だ。
 その爪が油断ならんのは充分に分かっていたので、こんなものを用意させてもらった」

鋼のやっとこ様の道具を取り出すと、やおら殺生丸の右手の小指の爪を剥がしにかかる。

「うっあぁぁぁぁ」

あまりの痛みに悲鳴が上がった。

「そのように大きな悲鳴を上げると、喉を痛めるぞ」

目の眩む痛みが収まる間もなく、次々と爪が剥がされていく。
右手の爪を総て剥がし終わって、肩で息をする殺生丸の顎を捕らえて首を捩り、貌を上向かせてしげしげと見詰めて言う。

「以前に捕らえたものは、目から毒液を飛ばすものだったが、いやはやおまえは爪でよかった。
 その美しい眸を抉りたくはないからな」

言いながら、抑えきれない喜色を浮かべている。
憎しみに眸を瞬かせて睨む殺生丸を、さも愉しげに見下ろしてくる。

「さて、次は左手だ」

殺生丸は二度と声を上げなかった。
血の滲むほど歯を食いしばり痛みに耐えた。
悲鳴は相手を悦ばせるだけだと気付いたのだ。

「なるほど、流石は大妖怪の血をひくだけのことはある。
 だがいつ迄そのやせ我慢が続くかな?」

手を伸ばして、岩壁に幾つも掛けられている灯りの蝋燭を取る。
そして取り出した小さな包みを開くと、包まれていた赤い粉を火の付いたままの蝋燭に振り掛けた。
すると、ただの白い蜜蝋が禍々しい赤色に変わる。

「どうせ一晩もしたら新しい爪が生えるのだろうが、またぞろ剥がすのは面倒だし、また痛い思いをさせるのも可哀
 想なので封じておく。
 わしは存外に優しいのだよ」

蝋燭を傾けて溶けた蝋を、爪を剥がされた指先に垂らす。

「ひっ」

躯を硬くした殺生丸を(なだ)めるように言う。

「なあに、熱いのは一瞬だ。
 蝋の毒が滲みて暫くは痛いだろうが、じき感じなくなる」

総ての指先が蜜蝋で封じられた時には、殺生丸はぐったりとして縛めを解かれても動くことが出来なかった。
(くず)れている殺生丸を抱き起こし、貪るように唇を押しつけてくる。
侵入しようとする舌を、唇を堅く閉ざして抵抗するが、顎を強く締め付けられて僅かに開いたところに容赦なく差し入れられた。
もう一方の手が躯をまさぐり始めるが、ふと動きが止まった隙に痛む手で相手を突き飛ばして(いざ)り逃げた。

「ほう、まだそんな元気が残っていたか」

再び易々と殺生丸を捕らえると、両手を天井から垂れ下がっている鍾乳石にそれぞれ括り付け、両足も床から伸びている石筍に広く開かせて括り付けた。

磔刑にされた姿を満足そうに眺めた後、襟元をくつろげて胸元を露わにする。
さらに指貫を切り裂いて取り払うと、単の身頃を割って手を差し入れ形をなぞり確かめた。

「どうやら〝媛君〟と〝若君〟を間違えて捕らえたようだな。
 おまえは犬族の嫡男〝殺生丸〟か。
 仲の良い姉弟と聞くが、弟を餌に姉媛を捕らえてもよいな」

「馬鹿が、姉上はもういない」

「いないとはどう言うことだ」

そっぽを向いた殺生丸は無論答える気はない。

「まあいい、どうするかはいずれ考えるとして、その美しい貌では手下が間違えたのも責められんな。
 媛君のごとき若君〝媛若〟と呼ばせてもらおう」

露わにされていた胸元をまさぐられて、殺生丸の貌が嫌悪に歪む。
胸の蕾に唇を寄せ、上目遣いに表情を愉しみながら舐め上げる。

「やめろ!」

なおも舌先でころがすように弄ぶと、堅く(しこ)ってくるのがわかる。

「くくくく、なかなかに感じやすい躯とみえる」

「くっ」

「時間はたっぷりある。
 その美しい貌で、声で、躯でわしを愉しませてくれたら、この先もずっと生かしておいてやろう」

すっかり単の前をはだけられて、唇と舌が躯を舐め回すのに肌が粟立つ。
そしてそれが徐々に下方へ移動していく。
何をされるかを察して、躯を捩って抗うが、四肢を拘束されていてはどうにもならない。
敏感な先端を舐め上げられて戦慄が走った。

「あっ」

総てを含まれてしまい、執拗な口淫が殺生丸を翻弄しはじめる。

「あっぁぁぁぁ・・・や・め・・・」

こんなことをされたのは初めてだったが、更なる屈辱が殺生丸を待ちかまえていた。

「この造型もなかなかに美しいが、奥の秘蕾もさぞかしそそられるだろう」

後に回り込まれ裾をたくし上げられる。
殺生丸はすぐに施されるであろう忌まわしい行為に、眉根を寄せて瞼を閉ざし、躯を堅くした。
それは助け出されるまでの地獄の十日間の始まりであった。

 



 

殺生丸を捕らえたのは南から来た(ひる)の妖しだった。
彼らの掟では、虜囚は弄ぶにせよ妖力を吸い取るにせよ、先ずは頭目が優先で順次階位の下へと回される。
最下位の者まで回らぬこともあるが、つまらぬ獲物の場合は上位の者達は、手を付けないこともあるので、皆それなりに満足していた。

だが、殺生丸に強い執着をみせた頭目は、誰にも触れさせずに独り占めにした。
捕らえた時に美しい姿を見ているのと、洞穴の奥から漏れ聞こえてくる切ない喘ぎに刺激され、不満を持ち始める者が出始めた。
しかし、抜きん出た力を持つ頭目に逆らうことは死を意味するため、他で欲望を処理するしかなかった。
妖しの世界にも人間の世にあるような、遊廓や春を(ひさ)ぐ者がいる。
そんな妓楼での迂闊な睦言から、彼らの正体や根城にしている洞穴の場所を犬族に知られることとなった。

 

〝犬族の長〟である父妖が、洞穴の奥で見つけた出した殺生丸は、落下狼藉に惨い姿であった。
大妖怪の怒りの一撃に、蛭妖怪の頭目は貌を切り裂かれ逃げ出したが、後を追い止めを刺すことは断念しなければならなかった。
殺生丸の無惨な姿を一族の誰の目にも触れさすことは出来なかったからだ。
しかし、傷の深さから何とか落ち延びたとしても、そう長くは持たないのは明白であった。
〝犬の長〟は殺生丸を己の毛皮に包み込み邸に連れ帰ると、後の手当もすべて己独りで行った。

十数日が過ぎた頃には殺生丸の躯の傷はすっかり癒えた。
殺生丸は銀花がこの地にいて、己を囮にされて捕らわれていたらと思うと胸が潰れる思いがした。
銀花の妖力が強いのは知っていたし、これまでは銀花に守られてきたのも分かっていたが、それでも殺生丸は銀花を守るため、己の躯を守るためにも、もっと強い力を欲っした。
そして時を惜しんで剣の鍛練をするようになった。
だが、日を追うごとに殺生丸の様子が徐々に変わっていった。

力を求め強くなろうとすると、必ずあの屈辱を思い出さずにはいられない。
躯の傷は癒えても、心の柔らかい部分に決して癒えない傷が刻まれていた。
殺生丸の心の襞は、傷つき痛みを伴うその部分を、貝が侵入した異物の核を幾重にも覆うように、奥底に包み隠した。
だが、そうして出来上がったのは美しく輝く真珠ではなく、硬く冷たい鋼の凝りだった。

常に妖鎧を纏い、心も鎧った殺生丸は〝力〟のなんたるかも分かろうとせずに妄執した。
そんな殺生丸を父妖は、唯見守ることしか出来なかった。

〝戦慄の貴公子〟と渾名された殺生丸に、大切なものを思い出させてくれる人間の幼い少女との出逢いは、まだずっと先のことであった。

 



 

「きさま、生きていたのか」

「思い出して頂けたかな〝媛若〟」

「くだらぬ呼び名は許さぬ!」

「くくくく、あの日々を思い出すからかな。
 だが、わしとて辛いのだ。
 愉しい思い出と共に、親父殿から受けた傷の痛みも思い出す。
 まさに死ぬるほうがましと思う痛みだった。
 幾日も生死の境を彷徨い、やっとのことでこの世に舞い戻った。
 いや、一度は死んだのかもしれんな」

「ならば、再び死ね」

「悲願を成就すれば死んでもかまわん。
 死者の国を彷徨っているとき、わしが何を(おも)ったと思う?
 もう一度おまえを抱くことだ、それも親父殿の見ている前でな」

「下衆が!」

「この傷は、酷く面変わりさせられたうえ、長く痛んでな。
 それがある時からまったく痛まなくなったのだ。
 親父殿が死んだことを聞いた時からだよ。
 だが、残念でもある。
 目の前でわしに抱かれるおまえを見て、親父殿がどんな貌をするか愉しみだったのだ。
 代わりに親父殿の牙で出来ているというこの刀にでも見せてやるか?」

腰に佩いた天生牙を示す。

「天生牙はきさまなどが持てるものではない」

「だが、わしの傷を刻んだ太刀と違い、なにも斬れぬなまくら刀だったぞ。
 まあ、何か他に使い道があろう」

独り悦にいった様子で殺生丸の顎を掴み上向かせる。

「わたしに触れるな!」

首筋に這わされた指の感触に総毛立ち、屈辱の日々が鮮明に蘇り、声が震えるのが抑えられない。

「や・・めろ」

「つれないな、わしは一日としておまえを忘れたことはないというに」

躯を撫で回す忌まわしい感覚が、過去の感覚と被さり、殺生丸は言葉を発することも出来なくなっていた。

「殺生丸にそれ以上何かしたら許しませんよ」

彩扶錏は怒気を含んだ低い声で警告する。
彩扶錏を振り返り水蛆は薄く嗤う。

「ほう〝鬼の長〟は〝犬の若君〟に大層ご執心のようだ。
 ならば、親父殿の代りに殺生丸があさましく喘ぐ姿を御覧頂くという手もあるな」

水蛆は、彩扶錏によく見えるように、わざと躯の位置をずらして殺生丸に口付け、顎、首そして胸へと唇を這わせていく。

その時、煌めく光の矢が水蛆めがけて飛来した。
もしもその瞬間、水蛆がさらに下まで唇を這わそうと屈み込んでいなかったら確実に光の矢は水蛆の頭を射抜いていただろう。
頭頂部を僅かに掠めた矢に驚くも、すぐさま躯を翻した水蛆は、次々に襲いかかってくる音速の矢をまろぶように躱す。
すでに逃げ遅れた何名かが絶命していた。

光の矢を放ったものは、ふわりと殺生丸の傍らに舞い降りた。
その姿に水蛆は、己の貌の傷を押えて呟いた。

「〝犬の長〟・・・」

だが、相次ぐ殺生丸と彩扶錏の言葉に合点がいった。

「姉上」「銀花」

銀花は殺生丸の傍らに跪くと、蔓に縛められている手首に痛ましそうに触れた後、爪から発した光の刃で蔓を切り裂いた。

先程の光矢も銀花の爪から放たれたものであるが、銀花の爪は殺生丸の毒華爪や犬夜叉の散魂鉄爪よりもさらに凄まじい威力を秘めていた。

「大事無いか、殺」

「はい、姉上」

応えながらも、水蛆に嬲られていたのを銀花に見られたのが辛かった。

銀花は殺生丸の頬に手を添えると、そっと唇を重ねてきた。
優しく深い口付けが終わると、銀花は驚く殺生丸に微笑んで囁いた。

「消毒だ」

さらに顎、首筋、胸元と数カ所に口付けていく。
水蛆に受けたおぞましい感触は綺麗に一掃されて、うっとりするような恍惚感だけが殺生丸を支配した。
銀花が唇を離すと、殺生丸は切なくて、もっと触れていて欲しいと思った。
銀花は、はだけた襟元を直してやると片目を瞑ってみせる、

「続きはまた後でな」

僅かに赤面する殺生丸に、立ち上がった銀花は手を差し延べてくれたが、口付けと一緒に〝気〟を吹き込んでくれていたお陰で、躯の痺れも消えていた。

銀花は目もくれないまま、殺生丸に対するのとは正反対の冷たく容赦ない声音で言い放つ。

「彩扶錏、よくも殺を巻き込んでくれたな!
 後で憶えておれ」

「えっ、そっそんなぁ、わたしのせい?」

無論、彩扶錏が意図して仕組んだことではないし、そもそも殺生丸を近江に来させたのは銀花なのであるが、妖しであろうが人間であろうが、怒っている女人(にょにん)に逆らっていい目が出ることはまずない。
惚れた弱味も多分にあるが、彩扶錏はここはひとつ素直に謝っておくことにした。

「申し訳ございません。
 償いは後ほど如何様にも」

「〝鬼の長〟殿、後ほどがあると思わぬ方がいいぞ」

体制を建て直した水蛆が妙に落ち着き払って言う。
同時に、彩扶錏は後からひやりとする物を首筋に感じた。
手下のひとりが透明な瑠璃で出来たような剣を彩扶錏の首に押し当てたのだ。

その剣は刃の部分に、中心を境に左右に溝が掘られていて、赤い液体状のものが流し込まれていた。

「あなたが〝犬の媛〟か。
 まったく、親父殿が女人になって生まれ変わってきたかと思うほど似ているが、つまらぬ処まで似たようだな。
 殺生丸の縛めを解く前にわしを追い詰めるべきだったのだ。
 親父殿も媛も詰めが甘いのは血筋なのか。
 ならば詰めだけでなく肌もさぞかし甘いのだろう、殺生丸と同様にな」

背後で殺生丸の躯が強ばるのを感じて、銀花は水蛆の視線から庇うように位置をずらすと、腰の〝號鉄〟を抜き放つ。

「後先などはどうでもよいこと。
 どのみち直ぐにきさまは無駄口を叩けぬようになる」

膨れ上がる銀花の妖気に水蛆は息を呑んだ。
灼熱のごとき妖気には憶えがあった。
あの大妖怪が沈んだことを知った日から痛まなくなった傷が、再び疼きだしたが、真の脅威は灼熱の妖気の底の僅かな気配だ。
ちりちりとしたものが背骨を駆け上がり、本能が怯える。

「噂は本当だったか。
 どうやらあなたは親父殿より何十倍も危険なようだ。
 だが、あれが見えるだろう。
 刃向かえば〝鬼の長〟に剣が食い込む」

「切り刻め」

「はっははは、これはいい。
 殺生丸さえ助ければ〝鬼の長〟などどうでもよいと?」

「いや、鬼族に必ず連れ帰ると約定した。
 が、生死の如何はそのかぎりではない」

「なるほど遺体であっても連れ帰れば約定は果たしたということか。
 どうだ〝鬼の長〟」

「わたしもそれで構いませんよ。
 ですが、きさまはわたしを傷つけられないでしょう。
 そこにいる凌霄が許さないのではないですか」

彩扶錏の言葉に銀花が視線を転じると、明らかに毛色の違う者が二人いた。
眼が合うと相手はすぐに逸らしてしまったが、奸計を巡らした者にしては澄んだ瞳をしていると銀花は思った。

「水蛆、何度も言わせるな。
〝鬼の長〟に手出し無用だ」

「〝鬼の長〟には・・・だろう、案ずるな凌霄」

水蛆が目配せすると、手下は彩扶錏の首に当ててた剣をすっと掣く。
刹那、優美な首筋に赤い血が滲むはずであったが、実際、血の滲む首筋を押さえたのは殺生丸の方であった。
瞠った銀花の視界が再び剣の動きを捕らえた時、殺生丸の反対の首筋からも血が流れた。

「殺っ!」

すぐさま傷を圧さえてやる。

「大した傷ではありません、姉上」

確かに傷は浅かったが、あと少しでも深かったなら致命傷になる場所だ。
銀花は殺生丸が傷を負うと、己が受ける傷以上に痛みを感じてしまう。
己のことならば、どれほどにも耐えられても愛する弟が傷つけられるのには耐えられない。

「きっさまあぁぁ」

愛刀を握る手に力を込めた。

「得物を捨てて頂だこう。
 あの瑠璃の剣には面白い力があって、刃に仕込んだ血の本体を屈折させるのだ。
 右のものを左に、左のものを右にというようにな。
 今、刃に仕込まれている血は無論〝鬼の長〟と殺生丸のものだ。
 さあ、どうする〝禍つ媛君〟」

手にしていた〝號鉄〟をぐさりと地に突き立て、佩いていた〝鬼哭の剣〟も同様にした。

「物分かりがいいな、ではこちらに。
 くれぐれも妙なことはするな、わしとて殺生丸に傷を負わせたくはない」

間近に見ると、銀花の眸は右が銀色に耀っているのに気づく。
今は硬く引き結ばれているが、柔らかそうな唇は艶やかな桜色で、触れてみたいと思うが、妖気に怖じける本能が手を出すのを躊躇わせていた。

「親父殿によく似ているがやはり媛君だ、たおやかであられる。
 しかし、真に媛君なのかどうか確かめさせてもらおう。
 なにせ殺生丸を媛君と間違えたこともあるのでな」

そう言うと銀花に鎧を外させる。
着物の上からでも柔らかな線がわかるが、怖じける本能に色欲が勝ったのか、襟元に指を掛けていっきに引き下ろした。

「姉上!」 「銀花!」

現れた姿態は、優しい曲線に縁取られた白磁のごとき肌であったが、先程からの怒りのせいで僅かに薄桃色に上気しているのが息を呑むほどに艶めかしい。

周りからは〝ほう〟という溜息が漏れた。
水蛆は魅入られたように水蜜桃のふくらみに手を添わした。
吸い付くような肌に一瞬身震いするが、すぐにその感触を愉しみだす。
彩扶錏は無言で射殺すような視線を投げ、殺生丸は悲痛に呻いた。

「触るな、水蛆!
 姉上がそんな下郎に触れられるくらいなら
 わたしは死を選ぶ!」

「騒ぐほどのことではない、殺。
 こやつが何をしようと、真に触れることは出来ぬのだ。
 我にも殺にもな」

「姉上・・・」

だが、水蛆の手がさらに下方に潜り込むのを見ていられなかった。
それは毛色の違うふたりにとっても同様であったようだ。

「いいかげんにしろ、水蛆。
 見返りは〝鬼の本殿〟に通路を繋げるだけだ。
 それ以外は此方の指示に従ってもらう」

凌霄は流石に女人に対する狼藉に黙っていられなかった。
水蛆の手下どもの血走った眼から、いずれ多数による浅ましい凌辱が始まるのは明らかだった。

「黙っていろ!
 おまえは〝鬼の長〟さえ手に入ればいいのだろうが、他のことに口出すな」

「たとえ虜囚といえどもそのような振る舞いを許すわけにはいかぬ。
 恥ずべき行為だとは思わぬのか」

「ならばおまえが〝鬼の長〟にしようとしていることはどうなのだ?
 それとも傀儡にしてからなら構わんのか」

「くっ」

返す言葉に窮した凌霄(りょうしょう)に代わって応えたのは年かさの方だった。

「いっそ意識が無いほうが辛くはないだろう」

「だがな鷲峰(じゅうぼう)、それではわしが面白くないのだ。
 それにすぐに媛も悦びの声を上げ始める」

「それはどんなものかな」

応えたのは銀花だった。

「水蛆とやら、きさまは女を抱いたことがあるのか?」

「なんだと」

「だから、悦ばせたことがあるのかと聞いている」

「星の数ほどな」

「見栄を張るなよ」

「ふん、見栄などではない。
 現に女だけでなく殺生丸も佳き声で欷いたものだ」

 

水蛆の言葉に殺生丸の躯が震えた。

「ああ、それは除外だな。
 雄の愉悦とは本来、精神や気持と関係のない処にある。
 単純な摩擦の動作で極めてしまう、それが悲しい雄の(さが)だ」

身も蓋もない銀花の言いように、その場にいた全員が絶句した。
殺生丸は一瞬頭が真っ白になった後、吹き出していた。

「多分、きさまの相手をした女は慈悲深かったのだな」

「どういう意味だ」

「このへんではっきりしておいた方がよかろう。
 でなければずっと気付かぬままだ」

「さっさと言え」

「誰も教えてくれなかったようだが、きさまの独りよがりの行為ではちらとも感じぬ。
 つまり、きさまは前代未聞なほどの へ・た・く・そ だ」

「なっなに」

「手指での愛撫がその程度では、その先のおそまつさも思いやって余りあるだろう。
 無論、我は虜囚であるから悦ばす必要はないのかもしれんが、出来うるなら気持佳いにこしたことはない。
 だが、きさまの手練ではよがり声も上げられぬな。
 ちなみに我は不感症ではない。
 それは〝鬼の長〟が証明してくれよう」

〝おおっ〟という意味不明などよめきが起こった。
羞恥と怒りに貌をどす黒く染めている水蛆は反論する言葉を発することも出来ずにいた。
銀花は憐れむように〝ふっ〟と鼻で嗤った。

言葉では敵わぬぶち切れた男の取る行動は、古今東西に於いて決まっているらしい。
水蛆は力任せに銀花の着物を引き千切った。

銀花の前面に居た水蛆や手下どもには、背中の入れ墨は視えていなかったが、今は、腰のくびれから下腹部にまで延びている赤く妖しく輝いている入れ墨と、その先のなだらかな丘陵の髪と同じ銀色の柔毛さえのぞいている。
これまた悲しい雄の性で、きわどい場所まで露わにされた姿をもっと見ようと、皆が一歩二歩と踏み込んだ。
そして、彩扶錏の首に瑠璃の剣を当てていた者も例外ではなかった。

刃が僅かに離れたのを銀花は見逃さない。

爪から放たれた光矢は瑠璃の剣を打ち砕くと、それを構えていた者の喉を貫き更に彩扶錏を縛めていた蔓を切り裂いた。
同時に水蛆を足蹴に天生牙を奪い返し、空中で反転しながら突き立っていた〝鬼哭の剣〟を抜取り彩扶錏に投げ渡す。

「受取れ!」

ひらりと着地した銀花は、緋色の新たな衣を纏っていた。
誰もが見たことのないような形状の衣は、肌の露出部分が多くぴったりとしていて動き易そうであったが、なによりも銀花の姿態の美しい曲線を際立たせて大層魅惑的であった。

この上なく優しい微笑みと一緒に天生牙を殺生丸に渡すと、振り返り冷酷に言い放つ。

「さて、次は誰が我の相手をしてくれる?
 言っておくが〝魂の萎えた男〟に用はない。
 遠慮なく叩き切ってやるから心してかかってこい」

愛刀〝號鉄〟を引き抜きながら艶然と嗤う眸は、獲物を狙う獰猛な獣のそれだった。

「まずはきさまからか、水蛆。
 愉べ、楽には逝かさぬ」

左右に刃を閃かせると獣の咆哮のような風切り音とともに、水蛆の黒装束が紙のように切り刻まれていく。
突き込む水蛆の錐刀を難無くはじき返す銀花の剣技は妖力以前の問題で、遥かに水蛆を凌駕していた。

「きさまの肌など見たくはないが、やられたことはきっちり返しておく(たち)なのでな」

手下どもも彩扶錏と殺生丸に次々とやられていく。
このままでは全滅するのは時間の問題と、水蛆は助けを求める。

「凌霄、鷲峰手をかせ」

凌霄は水蛆を助ける気はすでに毛頭なかったが、ここで鬼の長を逃すことは出来ない。
刀を抜くと銀花の前に立ちはだかった。

「凌霄とやら、おまえが首謀者か。
 どうやら妖鳥族のようだが、なぜ〝鬼の長〟を狙う」

「あなたには関係のないことだ〝犬の媛〟。
 大人しく捕らえられてくれるなら水蛆のような下劣なことはしない。
 が、邪魔をするなら死んでもらうことになる」

「そうか。
 なら、こちらも遠慮はいらぬな」

正眼から振り下ろされた銀花の剣圧は凄まじく、紙一重で躱した刃がすぐさま切り返されてくる。
凌霄も剣に掛けてはひとかたならぬ使い手であったが、これほどの相手に対したのは始めてで、己が得物である長刀で切り結ぶ事すら出来ないでいた。
鷹の化生である凌霄の眼はどのような速い動きも捉えることが出来たが、その眼をもってしても銀花の剣速が上回っていた。
それは勝敗を分けるには十分な差である。

切っ先に脇腹を抉られたと思った瞬間、だが刃は大きく逸れていた。
次の攻撃では肩を貫かれたはずがこれも逸れていた。
どういうことかと凌霄は驚いたが、銀花の驚きの方が大きかった。

刃に捉えたはずがことごとく外れてしまう、こんなことは未だかつてなかった。
一瞬呆然としてしまった銀花に、今度は鷲峰の得物の大きく湾曲した矛が唸りを上げて襲いかかった。
反射的に屈み込んで薙ぎ払った號鉄の刃は、鷲峰の左足を切り裂いた。

「鷲峰!」

鷲峰を気遣い庇う凌霄に再び刃を向けるも逸れてしまう。

「なるほど、凌霄には號鉄は使えぬか、ならば」

銀花は爪の攻撃を繰り出した。
放たれた光矢は凌霄の腕の付け根を大きく穿った。
肺にも傷が及んだのか《ごふり》と血反吐を溢れさせる。
足を引きずりながら庇い立ち塞がる鷲峰の後ろで、凌霄の身体がたわんで背中から生えるように何かが現われた。

闇が凝ったようではっきりと輪郭は覗えぬが、貌とおぼしき辺りに禍々しい燃える赤色の眼がある。
凌霄自身の意識は無いようで二人羽織のように手足を操られているのだ。
現に仲間である鷲峰にさえ刀を振り下ろした。
寸前のところで銀花が腕を引き寄せなければ鷲峰は命を落としていただろう。

「下がっていろ、どうやらあれはもう、おまえの知っている凌霄ではないぞ」

「〝犬の媛〟こんなことを頼めた義理ではないが、どのような償いでもする、だから凌霄の命だけは助けてほしい。
 本当はこのような企てのできる奴ではないのだ。
 取り憑いているあれを引き剥がせば必ず正気に戻るはずだ」

「あれはそんな生易しいものではない、殺らなければこちらが殺られる」

銀花は號鉄を構え切り込もうとしたが、今度は刃が逸れるどころかびくとも動かない。

「我に抗うか、號鉄!」

銀花の怒りに呼応するように號鉄が吼えた。
空気を震わす恐ろしげな鳴動であったが銀花には深い悲しみを滲ませた悲鳴に聞こえた。

「もうよい!」

銀花は號鉄を利手から持替えると、すぐさま爪から光矢を続けざまに撃ち込むが、すばやい動きに躱されてしまう。
光矢から光繩に替えて動きを封じる。
光繩で縛され、もがく凌霄の手首をさらに押さえ込むが、左手は刀を握ったままなので力が入らず今にもは外されそうだ。

「彩扶錏、我ごと〝鬼哭の剣〟で貫け」

「なんですって、そんなことをすればあなたも殺してしまう」

「心臓さえ外せば我は死なん。
 さっさとやれ、そう長くは抑えておれぬ」

「無理です、出来ません」

「このっっ腰抜けがぁ!」

ついに抑え切れずいったん拘束を解く。
ひらりと跳びすさり着地すると水蛆の手下どもが数を頼りに取り囲んできた。
戦いの狭間で彩扶錏と背中合わせになると、互いに視線を敵に向けたままで銀花は冷たい叱責の気配を漂わす。

「あなたが傷つくくらいなら、この身を裂かれたほうがよほどにましです。
 ましてこの手で傷つけるくらいなら、腰抜けの(あざけり)りに喜んで甘んじましょう」

彩扶錏の切ない言い訳に、ひと言も発しなかった銀花だが、離れる一瞬に僅かに浮かんだ優しい苦笑を彩扶錏は知らない。

號鉄は水蛆の手下どもには使えても、凌霄には刃を向けることも出来ない。
爪から繰り出される光矢や光刀はことごとく躱されている。
残る手立ては銀花がさらに妖力を膨らませることしかなかった。
そうすれば爪の力も増し倒すことができるだろう。
が、そうすると封印から漏れ出でている禍つ力も増すことになる。
銀花はちらりと戦の最中の愛しい弟の横顔を垣間見る。

今まで殺生丸は銀花を、その漏れ出でている力を畏忌したことはなかった。
だがより強くその力を感じた時、殺生丸を怯えさせ嫌悪されてしまうのではないかという思いは目の前の敵よりも銀花を惧れさせる。

迷いが作った一瞬の隙に、操られた凌霄の手が今度は銀花の手首をがっちり捕らえた。
凌霄の背中のそれは、数本の蜘蛛のような腕を伸ばし身動きとれぬように銀花の身体を抱え込んだ。
拘束された銀花の背に水蛆が忍び寄る。
背後から貫こうというのだ。

水蛆の錐刀と銀花の心臓を結ぶ線上に白銀の影が割って入った。

「きさまの相手はわたしだ!」

殺生丸は毒華爪を収めると、腰の天生牙を抜き放った。

「なにも切れぬなまくら刀でどうするつもりだ、殺生丸いやさ媛若殿」

「その卑しい口の付いた貌にはほとほと嫌気がさした」

言うなり白刃をきらめかせ中空を切り裂いた。

「どこを斬っている、刀がなまくらなら腕もなまくらか」

嘲る水蛆は己が頭上に三日月に、闇よりも闇い空間が開いたことに気付いていなかった。
それが破鏡ぐらいにまで広がり、やっと水蛆の濁った眼が闇の空間と、そこに浮かぶ銀河を捉えた刹那、あたかも食いちぎるように頭を飲み込んで閉じた。
後には所在なげに立ち尽くす無様な胴体だけが残されていた。

「ふん、いくぶん見栄がよくなったな」

 

凌霄は意識の無いまま銀花の両の手首を締め付けている。
その後ろから見下ろしてくる赤い眼は憎しみと怒りに禍々しく耀いていた。
漂ってくるどす黒い嫌忌の臭気に銀花は眉を顰めた。
それは銀花に向けられたものではなかったが、その躯に宿す禍つ力の故にしばしば同じように嫌忌されてきたからよく分かる。

己と違うものを嫌い妬み受け入れず、あげく攻撃する。
そんな卑しい妬心が醸す臭気だ。
相手の反撃がさらに怨みを呼び、折り重なって強すぎる陰の念が渦巻いている。
銀花は赤い眼を見据えた。
禍々しい耀きの中に一瞬悲しい景が見えた気がしたがすぐにそれはかき消え、かわりに恐ろしく鋭い牙が生えた口が大きく開かれた。

銀花の肩口に喰らいつこうとした牙は、庇った彩扶錏の直衣の上からその左腕を深々と穿っていた。

「彩扶錏、莫迦なことを!」

「先程、あなたが傷つくくらいなら・・と申し上げたでしょう」

容赦なく食い込む牙が骨を軋ませる厭な音がした。
彩扶錏はひと言の呻きすら漏らさなかったが、優美な眉が僅かながら寄せられている様子からその苦痛が推し量られた。
彩扶錏の腕から溢れる血が凌霄の貌に滴り、その熱さが凌霄の正気を取り戻させた。

状況を素早く見て取った凌霄は銀花の手首を放すと、〝鬼哭の剣〟を握ったままの彩扶錏の右手を掴み取り、己の躯と背から生えているようなそれを刺し貫こうとした。
だが、銀花はそれを許さなかった。
抗おうとした凌霄は、増大し始めた銀花の妖気に言葉も動きも失った。

紅蓮に燃える天上の日輪のごとき犬妖の妖気は、総てを焼き尽くす恐ろしい力を持ちながら同時に優しい暖かみすら感じさせる。
だが、見え隠れしていた怖ぞける妖気もまた増大されて、凌霄の全身が総気立ち首に冷たい汗が一筋伝った。

恐るべき力をその身に宿す美しい妖。
怯えながらも惹きつけられる。
そして凌霄は気付いた。
金と銀の妖艶な眸が深奥に凄絶な孤独を隠していることを。

銀花は己を拘束していた数本の蜘蛛のような腕を千切り飛ばし、彩扶錏の躯に腕をまわした。

「しばし堪えよ」

彩扶錏は銀花の言葉の意味するところを違わず汲取った。

「承知!」

そして見守っていた鷲峰もまた銀花の意図に気付き、素早く凌霄の腕を取った。
彩扶錏は唯喰らいつかれているのではない、それの動きを腕に牙を止めることで封じていたのだ。
銀花は妖気の楔をそれと凌霄の間にねじ込み広げながら、彩扶錏の躯ごと引き剥がしにかかった。
凌霄は、躯全体に根を張ったようなそれが引き抜かれる重苦しさと、抵抗は感じるが痛みはなかった。
だが彩扶錏は腕を引きちぎられるような痛みと、それが牙を放すことが出来ないと知ると、腕を咬み砕いてしまおうとする強烈な痛みを感じていた。
彩扶錏は先程と同じくひと言の呻きも漏らさなかったが、顔色は紙のように蒼白だった。
さすがに唇を噛締め始めた彩扶錏に、銀花がこれまでかと思った時、突然抵抗が消え凌霄の躯からそれが抜け離れた。

「彩扶錏、放せ」

彩扶錏が封じを解くなりそれは腕から牙を外し跳び退った。

「腕は繋がっているか」

「無論。
 牙さえ外れればこのような傷など大したことはありません、ですが・・」

「どうした?」

「あなたが口付けのひとつも下さったら、(たちま)ち治癒してしまうでしょう」

「唾でもつけておけ」

他の雑魚どもは殺生丸が総て片付けていた。
残るは銀花と対峙しているそれのみ。
それは凌霄から離れ本来の姿に戻った。
蜘蛛に似ているようだがやはり輪郭はおぼろで、赤く耀う眼だけが鮮明に浮かんでいる。

銀花とそれの妖気のぶつかり合いは空間を震わせ、見る者の魂を震撼させる凄まじきものだった。

殺生丸は目の当たりにした銀花の力に、己との違いをまざまざと見せつけられた。
灼熱の妖気は父の妖気と同じものであるが、全力ではないであろう今でさえ、既に父を凌駕していた。
そしてもうひとつの妖気は・・・殺生丸は初めて銀花に畏れを感じた。
それは以前、変化した犬夜叉に感じた惧れとはまったく別のものだった。

勝敗はすでに決していた。
だが、銀花はとどめの一撃を加えられずにいた。
先程垣間見てしまった赤い眼の裡に過った悲しい色が引っ掛かっていたのだ。
そして、回り込んだ位置からそれの身体越しに、殺生丸が己を見詰める眸に畏れをみとめてしまった。

「あっ・・・」

一瞬気がそがれた銀花の顔面に鉤爪状のそれの腕が迫った。
殺生丸が、彩扶錏が、凌霄が、鷲峰が息を飲む。

銀の髪が数本舞い散った。

鉤爪は銀花の頬をほんの僅かだけ掠め、髪を断ち切ったにすぎなかった。
銀花の後方から放たれた真珠色の光りが鉤爪を反らせたのだった。
皆が見詰めた先に、鬣をたなびかせ中空を駆けてくる優美極まりない獣の姿があった。

体毛は僅かに青味を帯びた漆黒。
背には五彩の景が不思議な文様のように絶えず変化しながら浮かんでいる。
そして眉間には銀花を救ったあの光りと同じ真珠色に耀く一本の角があった。
霊獣麒麟、なかでも稀な黒麒麟であった。

「蒼鉛」

「銀花様、そやつは饕餮(とうてつ)です。
 お気を付け下さい」

銀花が幻の大陸の中心にある黄海を、蒼鉛、犬狼真君(けんろうしんくん)と共に旅していた時、伝説の妖魔と云われている饕餮の巣穴に分け入ったことがあった。
既に遺棄された巣穴であったが、そこに残っている妖気はなまなかなものではなかった。

「どうりで・・・」

見詰め返した先で饕餮が細く呟いた。
今まで、ひと言も発さなかった饕餮が確かに呟いたのだ。

《台輔》と。

饕餮の姿は見る間に縮まり柴犬の姿になった。

台輔(たいほ)・・・」

今度ははっきりと銀花の耳に届いた。
それは、銀花と蒼鉛にしか解らない異国の言葉だったが、物悲しい響きを含んでいた。
銀花の傍らに降り立った蒼鉛に、よろよろと近付いてくる饕餮の姿は柴犬から大きな赤い犬へと変わった。

泰麒(たいき)・・・泰麒、お逢いしたかった」

蒼鉛は饕餮の方へ踏み出した。
案ずる銀花に大丈夫だと目で合図してから饕餮に話しかける。

「わたしは、戴台輔(たいたいほ)ではない」

「なれど稀なる黒麒であらせられるそのお姿は、戴国の麒麟・泰麒の他であるはずがない」

懇願するような声は先ほどまでの禍々しい妖魔からは想像も出来ない哀れなものだった。
蒼鉛は獣形を解いた。
顕れた姿に饕餮は落胆の吐息を漏す。
銀花は蒼鉛のために空中から衣を紡ぎ出し掛けてやった。
蒼鉛は銀花に礼を陳べ再び饕餮に向き直る。

「おまえは戴台輔の使令なのですね」

力無く頷く饕餮を促して経緯を聞き出した。

災厄に巻き込まれた戴国の麒麟・泰麒は、その世界の者が〝蓬莱〟と呼ぶ日ノ本に、蝕によって、使令である饕餮と乳母ともいえる女妖と共に逃れたが、麒麟の力の源である角を失い、再び十二国の世界にある自国・戴国に戻ることが出来なかった。
六年の歳月を経て、やっと元の世界に連れ戻されたが、その帰途中、饕餮は蝕の中ではぐれてしまい、時空の狭間を彷徨う内にこの時代に流れ着いたという。

饕餮の言葉を補うように蒼鉛は繋いだ。

「銀花様、我々が五山を発つ少し前に泰麒が連れ戻されたと聞きました」

「そうだったのか。
 しかし饕餮、なぜ凌霄に憑いた」

饕餮は声の主を仰ぎ見た。
目の前に在る人影は人間ではない。
神仙でも麒麟でも妖魔でもないが、戦慄すべき力を持っているのが分かる。
饕餮は伝説の妖魔である。
戴国の黒麒麟に長時間の睨み相の末、その気に搦め捕られ使令に下ったが、それでも負けたというのではない。
だが、この相手には敵わないと分かっていた。
分からないのは、何故先程も真の力を出さなかったのかということである。
その力を持ってすれば、容易く止めを刺せたはずだ。

「解りません。
 唯、陰の気配に引かれたのかもしれません」

銀花は凌霄を見やった。

「なるほど凌霄〝鬼の長〟を怨んだな」

凌霄は、はっと顔を上げ彩扶錏の貌を見詰めてから認めた。

「怨みました」

「饕餮、おまえの廻りには数多の怨嗟・汚濁が渦巻いている。
 それがさらに陰の気配を呼び込み、おまえや凌霄を狂わしたのだ」

「今ならば解ります。
 泰麒を守るためにしたちょっとした見せしめが反対に泰麒の立場を悪くした。
 それが積み重なり益々抜き差しならぬことに成っていった。
 ・・・しかし、やめられなかった」

「麒麟の使令とはそうゆうものでしょう。
 主を守り、命に従う。
 泰麒は力を失っていたから使令を止められなかった。
 銀花様、饕餮をお許し頂けませんか」

そう言う蒼鉛は強い怨嗟に当てられ顔色が悪い。

「我はよいが、こやつを許しても構わんか?彩扶錏」

彩扶錏には銀花達のやりとりは解らなかったが、おおよその見当はついた。

「銀花のお心のままに」

本来なら誇り高き〝鬼族の長〟に刃向かい唯で済んだものはいないし、まして傷を負わせた償いは死しかなかった。

「済まないな、彩扶錏。
 饕餮、泰麒の元に帰りたかろうが、強い汚濁を纏った今のままでは蒼鉛にもおまえを送り返すことは無理だ。
 そうだろう蒼鉛」

「はい、銀花様が側におられなければわたしも立ってはいられない」

「饕餮、この刀はおまえとどんな縁がある、おまえを傷つけるのをことごとく拒絶したぞ」

「その刀は太古に我らが飛来した時の乗り物から造られております」

「隕鉄が乗り物?
 だがまるで生きて意志をもっているようだが」

「生き物ではありません。
 外部を遮断し内のものを守り、眠ったままのわれらを遠くまで運ぶよう造られました。
 疑似自我が組み込まれているので意志を持っているように感じるのです。
 ただ永い年月の間に自己進化し本当に自我を持ち始めたのかもしれません・・・・不思議なことですが、それは
 貴方に抗ったのを気にしております」

「これは刀に形を変えてしまっているが、おまえは再びこの裡に入れるか」

「はい」

「時間を掛ければその汚濁も消えよう、それまでこの中で眠れ。
 いつか必ず泰麒の元へ帰してやる。
 遮断してしまえば蒼鉛も障りあるまい」

「わたしをお許しになるのですか」

饕餮(とうてつ)、名はなんと言う?
 ああ、名は教えられぬか」

力あるものに名を読み取られることは、即ちその躯を搦め捕られたも同然のことである。
饕餮には分かっていた。
すでにこの相手は己の名を読み取っている。
だが、敢えて搦め捕る意志が無いことを知らせるために訊いてきたのだ。

傲濫(ごうらん)

「この刀の銘は〝號鉄(ごうてつ)〟韻が似ているな」

「貴方様はどちらの国の王であらせられます?」

「我は王ではないし、蒼鉛も台輔ではない。
 おまえのいた世界に行ったことはあるがな」

「どちらの国の王でも麒麟でもないなどと・・・」

傲濫の蒼鉛のいた世界では、麒麟を従えることが出来るのは王のみ、麒麟は王を選び助けることが仕事、理であった。

傲濫は困惑するとともに、己が裡の忘れ去られていた古い記憶を思い出した。

太古に傲濫の眷属がこの地上に舞い降りた時、僅かながら先に在った種族と争った。
戦いは悲惨を極めたが、戦うこと、強さ、勇敢さが尊ばれる傲濫の種族はなんら臆することはなかった。
だが、彼らをして恐れたものがあった。
それは敵のひとつ、紛うことなき禍もの、総てを破壊へ誘う覇王であった。
その力によって傲濫の眷属は壊滅した。
宇宙に逃れたものもあったが、残ったものは細々と生きながらえ、己の出自も忘れいつしか妖獣、妖魔などと呼ばれるようになっていった。
後に、覇王はその荒ぶる力ゆえに同族からも疎まれ、ついには種族の〝王〟により力を真二つに割かれて堕とされたと聞いた。

目の前の相手が、その片方の力を宿しているとしたら敵わないのも無理からぬことだった。

「おまえは〝飛来しものども〟なのか?」

「それが何者を指して言っておられるのかは見当がつきます。
 ですが違います。
 多分、貴方様が思っておられる以上にこの地上を訪れたものは多いのです」

「なるほどそうか」

傲濫は金と銀の不思議で優しい眸のたおやかな姿を見上げた。
いずれその躯に降りかかるであろう禍事が傲濫には案じられた。

「さあ傲濫、きっと泰麒の元へ帰れるようにしてやる、安心して眠るがいい」

傲濫は差し出された刀身に吸い込まれるように消えた。

以後、〝號鉄〟の風切り音から悲しい音色が消え、勇猛な響きだけを奏でるようになった。

鞘に収めた〝號鉄〟を腰に佩きなおした銀花は殺生丸と目が合った。
銀花は先ほどの殺生丸の眸に浮かんだ色を忘れていない。
いつかこんな日が来るだろうと、覚悟はしていたがそれでも心が震えた。
だが眼前に立った殺生丸は、銀花の左の頬の傷に優しく指先を添わせた。
それは毛筋ほどのもので、すぐに消えてしまうだろう傷であったが、痛ましげに、愛おしげになぞっていく。

「殺・・・」

「姉上がご無事でよかった」

殺生丸は確かに銀花の力に畏怖を覚えた。
だが、鉤爪が銀花を引き裂いたと思った時、魂を握り潰される心地がした。
どんな力を宿してようと愛しい姉に違いはなかったのだ。

「貌に傷を負われて」

「すぐに治る、案ずるほどのことではない」

殺生丸は銀花を抱き締めながら頬の傷に唇を当てた。
一刻も早く治そうとするようにちろちろと舌を這わす。
銀花はくすぐったそうにしながらも身を任せている。
以前と変わりなく接してくれる殺生丸の心が嬉しかった。

彩扶錏は憮然とし、蒼鉛は見ていられないと眸を逸らす。
すでに何度も似たような光景を見ているので免疫があったが、堪らないのは免疫のない者である。
美しい氷の(かんばせ)・戦慄の貴公子、と世に聞こえた殺生丸と、先ほどみた凄まじい力の銀花が子犬のように(じゃ)れている。
麗しい姿だから尚のこと見ている方が赤面してしまう。
凌霄と鷲峰が阿呆のようにあんぐり口を開けて、頬を真っ赤に染め上げているのも無理からぬことであった。

「いいかげんになさい、凌霄と鷲峰が呆れていますよ」

彩扶錏の言葉に殺生丸は、ふんと鼻を鳴らしたが、ようやく銀花を腕から離した。

「凌霄、なぜわたしを狙った。
  理由如何ではこのまま済ますことは出来ません」

「〝鬼の長〟、許されようとは元より思っておりません。
 どうぞご存分に成敗なさればよろしかろう」

凌霄と鷲峰は跪き、得物を差し出し殊勝に項垂れたが、その言葉には明らかに険が含まれている。

「わたしが入って来ました入り口に、年若い姫とお付の女御が心配そうに居られましたよ」

蒼鉛の言葉に凌霄の眸が揺らいだ。

「あのお方は関係ございません。
 これはわたしだけの企み。
 乳兄弟である鷲峰も、唯わたしの命に従ったまで、もしお許し頂けるのならば鷲峰を」

「なにを言う凌霄、おまえの罪はわたしの罪でもある」

「庇い合いはもうよい、だから理由を言え。
 何かわたしに恨みがあるのだろうが、銀花にも迷惑を掛けたのだからな」

その時空間が揺らいだ。
蒼鉛は銀花が入って来た方を見据えた。

「饕餮が眠りに入ったので空間が溶け出しました。
 あちらはもうだめです。
 わたしが入ってきた方へ向かいましょう」

「分かった、話は後だ彩扶錏」

銀花は蒼鉛に手を貸し飛翔し始めた。
その後に殺生丸、彩扶錏、そして凌霄、鷲峰と続いた。
出口を目指して飛翔する殺生丸の横に彩扶錏が並び、他には聞こえないように小声で呟く。

「殺生丸、二度とあのような眸で銀花を見たら絶対に許しませんよ」

彩扶錏は、一瞬なれど殺生丸の眸に宿った畏忌の色に気付いていたのだ。

「きさまに言われるまでもない」

「結構」

殺生丸は離れていこうとする彩扶錏に思わず訊うてみた。

「きさまは、姉上の力に畏怖を覚えたことはないのか」

「宿業も力も何もかも総て含めて愛しい銀花なのです。
 わたしの銀花への愛と、あなたのとでは比べる可くもない」

殺生丸はぎりりと睨みつけたが何も言わなかった。
それは僅かながら彩扶錏に負けたような気がしたからであった。

闇の空間を抜け出ると、そこは琵琶の湖に浮かぶ小さな島の西側だった。
銀花達が抜け出た蝕の穴はゆらゆらと閉じていき、後には何もなかったように綺羅めく湖面があるだけとなった。
蒼鉛が言っていたとおり、島の砂浜に人間でゆうなら十四・五才だろうか、まだあどけなさの残る姫君が世話役の女御と佇んでいた。

「凌霄」

「鷺姫様、どうしてここに」

「このところ凌霄の様子がおかしいから、この雀喜(じゃっき)に後を付けさせたのです。
 鷲峰も無事なのですね」

姫君の肩に雀よりも僅かに大きい小鳥がちょこんと止まっていた。

「はい、ご心配をお掛けして申し訳ございません」

鷺姫は、凌霄達の無事なことに安堵すると、一行の中に〝鬼の長〟の姿を認めて狼狽え、その言葉に驚愕する。

「さて凌霄、改めてわたしを襲った理由を聞かせてもらいましょうか」

「〝彩の君〟を襲った? 凌霄、いったいどういうことです」

恋の相手や、憧れに見詰める女達は彩扶錏のことを密かに〝彩の君〟と呼び、その華やかな噂話は一種の娯楽のようになっていた。
まだ初な乙女達もその噂を聞き、心ときめかすものも少なくない。
鷺姫もそんなひとりなのであろう。

「分かりました。
 ですが〝鬼の長〟此度のことは主家も鷺姫も何もご存じなきこと。
 咎はわたしだけにあることです」

「ああ、どうゆう理由であれ妖鳥族や鷺姫を責めたりはしない」

「ならば申し上げます。
 貴方を襲った理由は〝鬼の長〟貴方が姫様を弄んでお捨てになったからです」

「・・・・・・・」

しばしの静寂の後、殺生丸が吐き捨てた。

「彩扶錏、やはりきさまが諸悪の根源か」

「凌霄、こやつを焼くなと煮るなと好きにするがいい」

銀花は彩扶錏の襟首を掴んで突き出した。

「まだあどけない姫君に手を出すなど恥を知りなさい」

蒼鉛は汚いものを見るような目付きをする。

「ちょっと、ちょっとお待ちあれ」

彩扶錏は、真っ赤になってわなわなと震えている鷺姫に向き直った。

「鷺姫、わたしは姫にどこかでお逢いしたことがありましたか?」

「一夜を伴にした相手の貌を忘れるとは、腐れた外道よな」

銀花の言葉は氷より冷たい。

「頭ではなく、下半身でしか物を覚えられぬのではないか」

殺生丸は貌を見るのも悍ましいとそっぽを向いたまま言い放つ。

「巷で言うところの遣り逃げということですか」

蒼鉛は木で鼻を括ったような物言いである。

「蒼鉛、どこでそんな言葉を覚えた」

さすがに銀花が聞咎めた。

「あっいえっ・・・末弟殿のお連れの法師が・・・」

 

「〝彩の君〝、お逢いしたことはございません。
 今初めてお目見え申し上げます」

鷺姫の言葉に皆が固まった。
中でも凌霄の驚きはなかった。

「なんと申された。
 では姫様、あの切ないご様子はなんだったのです」

鷺姫が彩扶錏に逢ったのはこの時が初めてであった。
だが、姿を見たのは五月の頃、四つ年上のいとこである鶴姫の邸に遊びに行った日の夜のことだった。

鶴姫の部屋に忍んで来た彩扶錏を偶然見かけたのだ。
こっそりと覗いた彩扶錏の姿は聞きしに勝る麗しさで忽ちに恋をした。
優美な所作で鶴姫を抱き寄せ甘い睦言を囁きながらの秘事は、まるでお伽草子の絵巻物のようでまだ男女の機微も知らぬ年若い鷺姫の心をも震わせた。
以来、昼夜を問わずその姿がちらついて熱に浮かされたようになってしまった。
つまりは片恋の恋煩いということになる。

切なげに溜息を吐き、夜も眠れず食事も喉を通らぬ姫の様子に、姫付の筆頭護衛であった凌霄は尋常ならざるものを感じた。
そして、いとこの鶴姫の恋の相手が色好みととかく噂の〝鬼の長〟であり、鷺姫が訪れていた夜にも忍んで来ていたという事実から、鷺姫も〝鬼の長〟に弄ばれたとの結論に達したのだ。

「わたしはてっきり〝鬼の長〟があの夜、むりやり姫をお抱きになって恋いに引き摺り込んだとばかり・・・」

「お待ちなさい、凌霄。
 確か端午の節会(せちえ)の頃、鶴姫の邸を訪ねたような覚えがあります。
 しかしいくら何でも逢瀬の相手である姫の邸内で、他の姫とも愛を交わすなど、あろうはずがないでしょう」

「常識ではさようでございましょう。
 ですが、稀代の色好みであられる〝鬼の長〟のお噂ではそれくらい朝飯前にやってのけられると聞き及びます」

「どんな噂ですか、まったく心外な。
 それに、わたしはむりやり女人を抱いたことなど一度も無い」

「身から出た錆だな、彩扶錏。
 しかし凌霄、よくも捕らえようなどと思ったものだ。
 稀代の色好みである〝鬼の長〟は、妖力のほうも稀世だぞ」

揶揄を含んだ銀花の言葉に彩扶錏は眸を彷徨わせた。

「無論存じておりました。
 姫のお嘆きに何も出来ない己と〝鬼の長〟を呪いました。
 それが、妖魔を引き寄せたのでしょう」

「そうだな。
 傲濫もまた、己が主を助けることが出来ず、報復と怨嗟が繰り返され病んでいった」

「わたしはあの妖魔の力を得て奸計を巡らしました。
 一族に類が及ばぬよう秘密裏に事を成すため水蛆などに手を借りたわたしが愚かでした。
 いいえ、そうではない。
 やはり始めからわたしが愚かだったのです」

「わたしを傀儡にすると言っていたな。
 いったいどうするつもりだったのだ」

凌霄は言いよどんだが意を決すると告白した。

「姫様の元にお通い頂くつもりでした」

「なんだと、わたしを抱き人形にするつもりだったのか」

余りのことに鷺姫は泣き伏してしまう。

「そんなことをして、姫が喜ばれると思ったのか」

さすがに銀花もあきれたようだ。

「・・わたしは・・ただ姫様をお慰めしたかった」

「わたしがいなくなれば鬼族が黙ってはいない。
 草の根を分けても捜し出すでしょう。
 騒ぎになると思わなかったのか」

「しばらくしたらにお帰り頂くつもりでした。
 姫には少しずつ間合いをあけて、徐々に〝鬼の長〟の心が遠のいたように見せかけるつもりでした。
〝鬼の長〟の移り気は有名ですので、それならば、お心の傷も浅かろうと」

「凌霄、それはまったく鷺姫を莫迦にした話だぞ」

銀花の言葉どおり鷺姫はさらに身も世も無く泣き伏す。

「莫迦にするなどとそんなつもりは・・・そんなつもりは毛頭」

凌霄の眸に嘘はない。
ただ姫を思う真摯な光りだけがあった。
彩扶錏の危機を見た凌霄は躊躇わず己の命ごと妖魔を絶とうとした。
〝鬼の長〟が命を落とせば姫が悲しむ、総て鷺姫のためなのだった。

「不器用な」

銀花は嘆息する。
殺生丸と同じくらいの歳であろうか、純な心の青年は示す忠義も、おそらく気付いていない己の恋にもぎこちない。
そんな凌霄を気付かわしげに見つめる鷲峰の眸の色は銀花には覚えのあるものだ。

「鷲峰、乳兄弟だと申していたな。
 年上のおまえならそれが的外れで愚かな企みであるとわかっていたろう」

「そうですね、傀儡云々は馬鹿げています。
 ですが、大切に見守ってきた鶴姫を〝鬼の長〟が気紛れに手折ったと思い込んでいたのです。
 お怨みするのはしかたない。
 ・・・凌霄を止められなかったのはわたしの罪です」

相手を思いやり過ぎて、気持ちが分かり過ぎてどうにも出来ないことはある。

「まったく、男というのは阿呆ばかりだ。
 短絡思考しか出来ぬくせにぐだぐだ考え過ぎてよけいなことをする。
 あげく姫を泣かせてしまっては本末転倒もいいところだ」

銀花は鷺姫を優しく抱き起こす。

「もう泣いてはいけないよ。
 此度のことは姫を思っての早とちりが生んだ他愛ないこと。
 姫は何も悪くないのだから。
 そんなに涙に濡れていては可愛いお貌が台無しだ。
 さあ笑って、素敵な笑顔を見せてほしいな」

しゃくり上げながら涙に烟る眸で見上げた姿は凛々しく美しく、優しい声音に励まされて僅かに笑む。

「ああ、思った通りだ。
 姫には涙よりも笑顔が似合う」

指の腹で涙を拭ってやる銀花を見つめる鷺姫は、うっとりと頬を染め、傍にいた男達は期せずして同じ五文字を脳裏に浮かべていた。

《すけこまし》

「わたしの〝はしたない〟想いのせいで、皆様にご迷惑をお掛けしたのでしょう?
 皆様も〝彩の君〟も呆れていらっしゃいますね」

「そんなことはない。
 言ったとおり姫は何も悪くないのだ。
 それに恋することは決して〝はしたない〟ことではない。
 だが〝鬼の長〟は確かに見栄えは良いが、中身は大したことは無い。
 それよりもっと姫のことを大切に想ってくれる誠実な相手がきっと現れる。
 案外もう近くにいるかもしれないよ」

「本当に?」

「ああ本当だとも」

鷺姫はやっと心からの微笑みを見せた。

「あの〝犬の媛〟様・・・」

「銀花だ、鷺姫」

「銀花様、またお逢い出来ますでしょうか」

「ああ、きっとな。
 何か困ったことがあったら言っておいで、何時でも力になる」

このどこかおっとりした姫は、未熟なせいか銀花の力を怖れない。
そして、恋いに恋するままごとのような彩扶錏への恋情は、あっさり矛先を換えたようだ。

 

見送る銀花達を何度も振り返りながら凌霄達は帰っていった。

明るい日差しは湖面を綺羅々とさざめかせ、何事もなかったように時は流れて始めていた。

 

「さて、殺、蒼鉛、我らも帰ろう。
 りんが心配して待っている」

「お帰りになられるのか銀花」

「ああ、おまえも迎えが来たようだぞ」

彼方から鬼共が口々に主を呼びながらやってくるのが見えた。

「銀花、今宵は望月です。
 お見えになるのでしょう?」

「そのことならもう問題ない。
 おまえにも迷惑を掛けたが、もう血が冷えることはない」

「ではっ、ではわたしは用済みということなのですか?
 わたしをお捨てになるとおっしゃるのですね」

「聞こえの悪いことを言うな。
 おまえを煩わせることはなくなったと言っている。
 稀代の色好み殿にとって望月の夜は何かと忙しかろう。
 今まで時を割いてもらって悪かったが、今宵からはまた存分にな。
 ああ今宵は〝供血〟であったか、まあ明日からでも励め」

「そんな・・・」

既に銀花は蒼鉛の腕を取り飛翔態勢に入っている。

「彩扶錏、端午の節会の頃も姉上に纏わり付いていたが、他の女にも通っていたのだな。
 確かにきさまの愛はわたしなどとは比べる可くもないな」

 

彩扶錏には殺生丸の嫌みよりも、一度も振り返らず何の未練もないように去って行く銀花の後ろ姿が胸に痛かった。

 

第二十話 供血 其の二 おわり